『三国志』の官爵を分かりやすく説明することで、魏志倭人伝[ぎしわじんでん](『三国志』東夷伝倭国の条)に記される官爵名も明らかになる。あるいは、三国時代の官制を起源とする六朝期の官爵も分かるようになり、たとえば倭王の武が劉宋[りゅうそう]の順帝[じゅんてい]から受けた、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王[しじせつととくわしんらにんなからしんかんぼかんりつこくしょぐんじあんとうだいしょうぐんわおう]という官爵名が、(1)(節)使持節、(2)(督)都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、(3)(軍号)安東大将軍、(4)(封爵)倭王の四つの部分に大別されることが分かり、それぞれどのような権力を表現しているのかを理解できるようになる。

 少しだけ内容を紹介しよう。

 後漢は、約五千万人に及ぶ人口を十五万二千九百八十六人の官吏により支配していた。そのうち、勅任官は、七千五百六十七名であり、残りの十四万五千四百十九人、約九五%は小吏であった。歴史に名を残すには、総人口の0.015%(十万人に十五人)に過ぎない勅任官に出世することが大前提となる。

 後漢の官僚は、出身地の郡や県に小吏として仕え始めるものが多い。そのまま長い年月を郡県に勤務することで、年ごとに行われる功と労の調査の結果、「殿最[でんさい]」(最が最も高評価)を考課[こうか](成績評価)されて、それに応じた出世をしていく。これを功次による昇進と呼ぶが、これにより歴史に名を残すことは難しい。より出世の早い方法が多数存在するためである。

 世界史の教科書にも出ている、漢の官僚登用制度を代表するものが、郷挙里選[きょうきょりせん]、正確に言うとその常挙[じょうきょ](定例登用)である孝廉[こうれん]科である。郡国[ぐんこく]の太守[たいしゅ]・国相[こくしょう](ともに行政長官)から、年に二十万人ごとに一人推挙される孝廉科に選ばれると、最初に就く官職は、「三署郎[さんしょろう]」と総称される郎[ろう]官である。いまの日本で言うとキャリア官僚である。

 郎とは、本来、廊下の廊であり、君主の寝室の廊下に立ち、それを警護する親衛部隊の意味を持つ。勅任官として君主の近くに仕えることで、君主との主従関係が情義により固められる。郎官の多くは小県の県長[けんちょう](三百石[せき]、俸祿は穀物の量で表現される)、あるいは県丞[けんじょう](次官、二百石)に出る。任期を大過なく乗り切ると、中県の県令[けんれい](四百石)、大県の県令(六百石~千石)へと出世していく。

 後漢では、おおむね三十歳程度(順帝[じゅんてい])期以降は、原則四十歳以上)で孝廉科に察挙[さっきょ]されたので、県の長官を三つほど廻[まわ]ると、ほぼ四十歳(五十歳)に近づく。大県の県令からは、ルートが複数に分かれる。最も出世が早い者は、そのまま郡国の太守[たいしゅ]・国相[こくしょう](ともに二千石)に抜擢される。ここでも、太守・国相を三つほど廻ると、ほぼ五十歳(六十歳)近くとなる。郡国の太守・国相は、遠方から中央へと任地が近づくことが出世で、畿内[きだい]や三輔[さんぽ](ともに首都圏)の長官になると、九卿[きゅうけい](大臣、中二千石)に就官する可能性が高まる。九卿も三つほど廻ると、いよいよ三公(総理大臣、万石)が近づく。すでに年齢は六十歳(あるいは七十歳)に近い。

 こうしたモデルケースが描ける孝廉科のほか、さらに有利な郷挙里選の制挙[せいきょ]、さらに有利な辟召[へきしょう]、最も有利な徴召[ちょうしょう]というように孝廉科以外に複数の官僚登用法があった。三国志の英雄たちを支えていたものは、そうした制度のもとで出世競争を勝ち抜いた文官たちなのである。

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