「へいくわい(横柄)」とそしられながらも、「義」を貫き殉じた悲運の武将、石田三成。徳川家康に敵対したことで「奸臣」「愚将」の印象も強いが、近年の研究により次第に復権し、いまでは「忠臣」「名将」説を唱える歴史家も少なくない。近年では「歴女」と呼ばれる女性ファンにまで人気を広げる、光成の生涯と事跡を大特集した週刊朝日ムック『歴史道Vol.4』がお届けする短期連載。第二回目は、古今の著名歴史家たちが見た三成像に迫る。
※第一回からつづく
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■三成復権の足掛かりとなった名作『関ケ原』
徳川家康は、豊臣家から天下を奪い取り、江戸幕府を開いた。このような弱肉強食の論理を隠し、徳川の天下の正統性を強調するため、石田三成は、生贄とされ、奸臣や悪人として位置づけられた。
明治維新後、家康中心の歴史観が見直されても、三成を奸臣とする流れは改められなかった。司馬遼太郎の名作『関ヶ原』において、豊臣の天下を守ろうとした忠臣として描かれたことは、三成復権への足掛かりとなった。
戦国史研究の世界で多大な業績を残した渡辺世祐や桑田忠親は、奸臣か忠臣かという倫理観には固執せず、新しい時代を切り開いた実務官僚として三成を高く評価した。
笠谷和比古による「三成は強固な中央集権型の国家体制を築こうとした」という提言をはじめ、文献史料の解析と分析作業により、その実像は真実の姿を取り戻されつつあるといえよう。(監修・文/外川淳)
※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.4』より。文中敬称略。第三回へつづく