■馬車鉄道時代からの伝統の路線が京橋を渡った
明治になった1875年、京橋は全長14.4mの石造りアーチ橋として架橋される。銀座通りに路面電車の前身である馬車鉄道が開通したのが1882年であるから、石造りアーチ時代の京橋には、路面電車が走る20年も前からレールが敷かれていたことになる。
1901年に道路拡幅のため、橋長・幅員18mの鉄橋に改築。1903年に東京電車鉄道が馬車鉄道を電化して、東京で初めての路面電車が京橋を渡ることとなった。明治末期の絵葉書に、太鼓橋然とした鉄橋時代の京橋を渡る市電の大型ボギー車を見ることができる。1922年に竣工した新しい京橋は、近代的なコンクリート造りで面目を一新した。アールデコ調の擬宝珠(親柱とも呼ぶ)に橋銘板が貼付され、照明設備も備えられていた。
1960年代に入ると、東京高速道路の建設で京橋川の埋め立てが開始される。1965年11月には、京橋の躯体(くたい)を撤去して道路を平滑化する工事も施工された。撤去工事が完了すると、京橋の上空には日本橋や新橋のように高速道路の陸橋が覆い被さった。この三橋は奇しくも、前述の幕府御普請橋だったのだ。
「虎は死して皮を留める…」の格言ではないが、廃橋となった京橋の擬宝珠と明治の石橋時代の擬宝珠が、旧京橋の東詰めと西詰めの場所に保存展示されている。
■都電と競演した京橋の欧風建築物
京橋は本通線の銀座二丁目~京橋の間に位置するが、筆者が撮影した背後には銀座一丁目の停留所が1944年まで所在した。ちなみに、銀座二丁目~京橋の距離は315mであるから、乗降客の利便性に配慮した短い停留所の間隔であった訳だ。京橋停留所も開通当初は所在地名である南伝馬町の名称で、京橋に改称されたのは1920年だった。
市電時代の1936年、京橋を渡って運行されていた市電は、1系統(品川駅前~浅草)、19系統(飛鳥山~新橋駅北口)、21系統(神明町車庫前~芝橋)、24系統(南千住~新橋駅北口)、25系統(柳島~大門)の五系統だった。全盛期の市電が絢爛に行き交う光景は、素晴らしかったに違いない。