2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は格式のある擬宝珠(ぎぼし)を戴いた「京橋」を巡る都電だ。
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都内には、現在、川が流れていないのに「橋」が付く地名がいくつもある。特に東京駅の東側の一帯に多く、有楽町駅に近い「数寄屋橋」、飲食店が軒を連ねる「新橋」、東京駅八重洲口の北側に位置する「呉服橋」など。今回のコラムで取り上げる銀座に隣接する街「京橋」もまた、川がない。
ご存じの読者も多いと思われるが、徳川家康の代に水運を発展させるべく江戸の街に水路を張り巡らせた。江戸から東京へと長きに渡って水路は重用されてきたが、戦後の瓦礫(がれき)処理や1964年東京五輪開催を契機に、川を埋め立てて高速道路や一般道などに転用したため、いくつもの川が消えた。後述するが、京橋が架かっていた「京橋川」も同様に埋め立てられた。
■由来は「京へ上る最初の橋」
写真は1965年5月に撮影した京橋だ。欧風建築物が建ち並ぶ京橋川東岸の街並みを背景にした都電を写した。京橋を渡って銀座一丁目交差点に差し掛かった22系統新橋行きと、後方には1系統品川駅前行きも続行している。22系統の都電はこの先大きく右にカーブを切り、車体後部が左側車道に迫り出すので、車掌が腕を出して後続の自動車に注意を促している。車掌が後部の安全を確認すると、運転手に信鈴を「チン・チン」と二点打していた。都電の右側には1960年代を代表する国産乗用車「ニッサン・セドリック」と「トヨペット・クラウン」が併走している。
京橋が架橋されたのは、五街道の起点となった日本橋と同時期の慶長年間(1596~1615)と伝えられている。江戸幕府が直轄で架橋費用を負担した数少ない橋の一つで、「御普請橋(ごふしんはし)」と呼ばれていた。その欄干には幕府の威信を示す擬宝珠が掲げられていた。京橋の由来は「日本橋から京へ上るのに最初に渡る橋」であることから名付けられたそうだ。余談であるが、江戸期の商家にとって、擬宝珠を冠した日本橋から京橋の間に出店することは「擬宝珠内(ぎぼしうち)」といって大店(おおだな)の証で、誉れでもあった。