「日本橋」の北詰から撮影。すでに日本橋から青空は望めない。日本橋~室町一丁目(撮影/諸河久:1965年2月11日)
「日本橋」の北詰から撮影。すでに日本橋から青空は望めない。日本橋~室町一丁目(撮影/諸河久:1965年2月11日)
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 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は「お江戸日本橋…」と民謡に歌われる日本橋を渡る都電だ。

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「お江戸日本橋七つ立ち…」とコチャエ節で歌われるお馴染みの「日本橋」は、徳川家康が江戸幕府を開いた1603年に初代の木橋が日本橋川に架設されたと伝えられている。以来、日本橋を起点とする五街道(東海道・奥州街道・日光街道・甲州街道・中山道)が整備された。これらの起点である日本橋には全国津々浦々から人と物と文化が集中し、日本一の賑わいを呈した。
 
■現在の日本橋は1911年に竣工した「重要文化財」

 明治期に入り、日本橋に初めて路面電車が敷設された。東京電車鉄道による本通線で1903年のことだった。開業当初は1872年に架橋された木造の日本橋を渡っていた。

 路面電車が開業した同年に制定された市区改正計画により、首都東京にふさわしい新たな石橋の架設が計画された。1908年に着工され、路面電車が市営となった1911年に竣工した。新日本橋は全長49m、全幅27mで、各地の名石をふんだんに使った石造二連アーチ構造。東京市技師の米本晋一らの設計で、装飾顧問には明治建築界の三大巨匠の一人である妻木頼黄(つまきよりなが)が就任した。妻木のディレクションで、西欧と日本の意匠を巧みに取り入れた美しい橋に仕上がった。

現在の日本橋。1965年と同じ場所から撮影 右隅の広場に移設された「東京市道路元標」が見える(撮影/諸河久:2019年2月16日)
現在の日本橋。1965年と同じ場所から撮影 右隅の広場に移設された「東京市道路元標」が見える(撮影/諸河久:2019年2月16日)

 架橋当初から市電を敷設することを前提にしており、複線軌道の中心には架線柱を兼ねた「東京市道路元標」が設置された。この道路元標は1971年に日本橋を渡る本通線が廃止された時点で架線柱としての役目を終え、翌1972年から日本橋北詰の広場に移築・展示されている。1998年に照明灯装飾品の修復が行われ、翌年には国の重要文化財に指定された。

 余談になるが、四隅の親柱の橋銘板に刻まれた「日本橋」「にほんばし」の文字は最後の将軍となった徳川慶喜の揮毫(きごう)によるものだ。出自が幕臣・旗本の長男だった前述の妻木が、かつての主君・徳川慶喜公の揮毫をいかに懇願したのか、そのいきさつを推察するだけで楽しくなる。

親柱の橋銘板に刻まれた「日本橋」「にほんばし」の文字は最後の将軍徳川慶喜の揮毫だ(撮影/諸河久)
親柱の橋銘板に刻まれた「日本橋」「にほんばし」の文字は最後の将軍徳川慶喜の揮毫だ(撮影/諸河久)

■多くの系統と車型が日本橋を渡っていた

 写真は日本橋の北詰から撮影した日本橋を渡る40系統神明町行きの1000型だ。日本橋の直上に首都高速道路・都心環状線が架橋されたのは1963年だった。橋上の中央に都電の架線柱を兼ねた「東京市道路元標」が見える。

 戦後は四系統の都電が日本橋を渡っていた。1系統(品川駅前~上野駅前)、19系統(王子駅前~通三丁目)、22系統(南千住~新橋)、40系統(神明町車庫前~銀座七丁目)がそれで、1000型・1100型・2000型・3000型・5500型・6000型・6500型・7000型・8000型の9形式が充当されていた。

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