右側の店舗はマンションに変わり、踏切は信号機の付いた交差点となった。背景の坂
<br />を上ると右側に抜弁天がある(撮影/井上和典・AERAdot編集部)
右側の店舗はマンションに変わり、踏切は信号機の付いた交差点となった。背景の坂
を上ると右側に抜弁天がある(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

 数年前に抜弁天の専用軌道跡を散策する機会があった。風情があった旧景右側の店舗は跡形も無くなり、1990年に竣工した6階建てのマンションに変わっていた。かつての専用軌道は、大久保車庫の跡地に建てられた「新宿文化センター」にちなんだ「文化センター通り」と呼ばれており、抜弁天方から坂を下りてくる一方通行のバス通りに変貌していた。

 東大久保界隈に路面電車が走ったのは1913~1914年で、東京市が敷設した角筈(つのはず)線だ。開通時は新宿駅前編でも記述したように、新田裏から旧角筈に至る専用軌道の路線を走っていた。1948年12月、四谷三光町経由の新線と、翌1949年に新宿駅前に都電ターミナルが竣工したため、旧線は大久保車庫の回送線として活用されることになった。

バス停「抜弁天」は交通量が多い通りに面している(撮影/井上和典・AERAdot編集部)
バス停「抜弁天」は交通量が多い通りに面している(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

■都電廃止後は“陸の孤島”に?

 抜弁天の専用軌道を走る13系統は、新宿駅前を発して四谷三光町~飯田橋~水道橋~万世橋~秋葉原駅東口~岩本町~水天宮に至る9176mの路線だ。昭和初頭は18系統角筈~万世橋で運転され、1931年に13系統に改番。戦後も引き続き13系統を付番され、新宿駅前発四谷三光町経由の万世橋行きとなった。1958年4月、都電最後の延伸路線のひとつとして万世橋~秋葉原東口414mが開通し、新宿駅前~水天宮前の運転となった。

 1968年3月、新宿駅前~岩本町に運転区間が短縮され、残存区間も1970年3月に全廃された。前述の大久保車庫回送線も、この時点で廃止されている。

 13系統の廃止後、新田裏から神楽坂にかけては路線バスしか通わない“陸の孤島”になった。牛込地域がその名を返上したのは、旧13系統が走った角筈線に沿って「都営地下鉄大江戸線」が開業した2000年12月。都電廃止から30年が経過していた。辺りにはインドやタイなどの料理店が軒を連ね、賑わい豊かな魅力あふれる街になっている。

■撮影:1964年12月16日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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