2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は東大久保「抜弁天」(ぬけべんてん)の専用軌道を走る都電だ。
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移動手段が便利になるほど贅沢な感覚が芽生えるもので、10~15分ほど歩いたところに駅があっても、「遠い」と感じる人が多いかもしれない。確かに、鉄道網が張り巡らされた東京都心部において、その距離のなかに駅が見当たらない場所はむしろ少なくなったと言えよう。それだけに、それぞれの駅から遠い地域が“陸の孤島”などと呼ばれることもあるが、今回の東大久保界隈を始めとする牛込地域は、都電の廃止から都営大江戸線が走るまでの約30年間は、そう感じた人もいたかもしれない。
■抜弁天の専用軌道
飯田橋から牛込台地の坂を上り下りしてきた新宿駅前行き13系統の都電は、東大久保の「抜弁天」と呼ばれる厳島神社にさしかかる。抜弁天の先にある交差点を過ぎるとすぐに左手に折れて、新田裏(しんでんうら)まで約650mの専用軌道を軽快に走ることになる。この専用軌道の正式名称は角筈線の新設軌道(道路以外に軌道を敷設すること)なのだが、都電ファンは「抜弁天の専用軌道」と呼んでいた。新田裏を左折して雑踏の四谷三光町を右折すると、11・12系統の走る新宿線に合流。角筈停留所を経て、終点の新宿駅前に向かっていた。
写真は東大久保停留所から抜弁天専用軌道の坂を下りて、最初の踏切に差しかかる大久保車庫前行きの都電だ。この踏切は左右の見通しが悪く、都電といえども警報機が設置されており、右側の道路にはマツダ製軽三輪トラックK360が都電の通過を待っていた。長い影を曳いた師走のこぼれ陽が、寿司店や寝具店が居並ぶ裏町の横丁を赤く染めるフォトジェニックなシーンを撮影することができた。
都電の背後のこんもりした林が「白蓮山専福寺」で、幕末から明治期に活躍した浮世絵師・月岡芳年の墓所があることで知られている。
■そもそも「抜弁天」とは?
この界隈はかつて「東大久保」という地名だったが、現在は素っ気ない「新宿六丁目」に改名されてしまった。東隣にあたる抜弁天の周辺は、昔ながらの暖かな味を感じる「余丁町(よちょうまち)」で、この地名が現在も生きている。ちなみに、弁財天は琵琶湖の竹生島に準えて、行き止まりの池に張り出した島に祭祀されるが、ここは南北に門を設けて参拝者が通り抜けられるので「抜弁天」と名付けられた。