怒られた記憶はほとんどない。初対面の印象と変わらない優しい馬場であり続けた。
「たまに叱られても『お前は本当にアホやなあ』と言って、すぐにニコッとされる。最後に必ず笑顔があった」
急逝は、テレビで知った。前年12月のシリーズまで普通に出場していたが、1月シリーズは「体調不良」で欠場していた。
「まさかそういう病気(大腸がん)とは全く知らず、テレビの速報が流れて本当に驚きました。容体を最後まで知らせなかったのは、奥様の元子さん(2018年死去)が最後まで強いジャイアント馬場さんの像を守ろうとされたからではないかと思っています」
■「プロレスラーはみんな仲間だ」
プロレス界ではしばしば、有力選手が団体を離脱したり他団体に移籍したりということが起きる。秋山自身も馬場の死後、2000年に全日本プロレスを離脱してプロレスリングNOAH(ノア)の旗揚げに参加し、12年にはそのNOAHを離脱して全日本のリングに戻った。社長としては、所属選手の離脱にも見舞われている。「裏切られた」「信頼していたのに」と思いたくなる局面。そんなとき、秋山は初対面で馬場からかけられた言葉を思い出す。
「この先いろんなことが起こると思うけど、みんなプロレスをする仲間だということを忘れてはいけないよ」
馬場も、所属選手の大量離脱など様々な経験をしてきた。だが秋山は「馬場さんの口から誰の悪口も聞いたことがない」と語る。
「ライバル関係であったアントニオ猪木さんに対しても、自分の団体を出ていった選手に対してもです。馬場さんの“仲間”という言葉について真意を聞いたことはありませんが、私はこれは自分から去っていった人に対する言葉だと思って、そういう事態に直面してもすぐ気持ちを切り替えるようにしています。この言葉がなければ、もうプロレスをいやになっていたかもしれませんね」
馬場がもし生きていれば81歳。馬場の死後、全日本プロレスからは秋山も参加したプロレスリングNOAHや「WRESTLE(レッスル)-1」といった団体が派生し、有望な選手も各団体に散らばった。馬場が生きていたら、日本のプロレス界はどうなっていただろうか。
「全日本プロレスは選手の出入りはあるでしょうが、あの当時のまま続いていたでしょうね。ここまで団体がたくさん増えることもなかったかもしれません」
秋山が率いる全日本プロレスには古巣であるNOAHや、全日本からたもとを分かったWRESTLE-1の所属選手もリングに上がるなど、団体の垣根を越えた刺激的なカードが生み出されている。秋山は、馬場のプロレスに対する思いまでも受け継いで進もうとしている。(一部文中敬称略)
◯あきやま・じゅん/1969年10月9日、大阪府生まれ。1992年、全日本プロレスでデビュー。2000年にプロレスリングNOAHに移籍し、12年にNOAHを退団、13年に全日本プロレスに再入団。14年から社長に就任する。近著に『巨星を継ぐもの』(徳間書店)。全日本プロレスは2月7日に東京・後楽園ホールで興行を開催。
(文/福井洋平)