1960年、小型のビリヤードを興じるジャイアント馬場さん。奥には力道山さんの姿も(c)朝日新聞社
1960年、小型のビリヤードを興じるジャイアント馬場さん。奥には力道山さんの姿も(c)朝日新聞社
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「東洋の巨人」と呼ばれたプロレスラーのジャイアント馬場が61歳で急逝してから1月31日で20年。馬場と対戦したり、直接教えを受けたりした現役レスラーも数少なくなった。晩年の馬場に特に目をかけられてきたのが、1992年に馬場の団体、全日本プロレスでデビューした秋山準(49)。いまも現役であり、全日本プロレスの社長としても活躍する秋山に、馬場の思い出を聞いた。

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■初対面で「信用できる」

 もともと熱心なプロレスファンではなかったという秋山。長州力、馳浩ら有名プロレスラーを輩出した専修大学レスリング部に所属していたが、卒業後は普通のサラリーマンになるつもりだった。そんな彼をプロレスラーの道に引き込んだのが、ジャイアント馬場だったと言う。

「専修大レスリング部で指導をされていた松浪健四郎さん(元衆院議員・現日本体育大学長)に呼ばれて、誰に会うということも聞かされずに赤坂のキャピトル東急ホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)に向かったら、そこに馬場さんがいらっしゃったんです」

 当時のキャピトル東急は、馬場が愛用していたホテル。そこで秋山は馬場からプロレスへの「スカウト」を受けた。「プロレスに入ったらこれくらい稼げるぞ」といった条件面の話もあったが、印象に強く残ったのは馬場の「笑顔」だった。

「言葉の中身というよりも馬場さんの笑顔や話し方、優しい雰囲気で、『この人は信用できる』と感じさせてくれました」

馬場さんとの思い出を振り返る秋山準。プロレスの試合における、ロープに投げられたときの動き(ロープワーク)について、馬場はロープをつかまず次の動きに移れと教えていたという(写真/小暮誠)
馬場さんとの思い出を振り返る秋山準。プロレスの試合における、ロープに投げられたときの動き(ロープワーク)について、馬場はロープをつかまず次の動きに移れと教えていたという(写真/小暮誠)

 内定していた企業を蹴り、プロレス界に身を投じることに決めた。馬場はその後、秋山の出身地である大阪に出向き、秋山の両親に「お願いします」と頭を下げることまでした。

■理詰めで技術を教える

 社長業やタレント業で多忙だった馬場。だが巡業の時などは、馬場が直接秋山をはじめとする若手選手のコーチをすることもあった。その説明は「理論的でわかりやすかった」と言う。

「体を大きくする方法から、最初はどう相手と組むか、相手の手をどう取るか。相手の足や手をどうやって取るのか、関節を極(き)める(=技から抜け出せなくさせる)のか、投げるのか、理論的に教わった。デビューに向けてどんどん難易度が上がっていきました。馬場さんから教わったことは、『プロレスはどこからでも関節を極めることができる』ということ。自分もアマレスをやって格闘技の知識はありましたが、馬場さんが教えてくれることに疑問点はなかったですね」

 さらに、こう続ける。

「例えばロープワークの際、最近のレスラーはロープを手でつかんでから跳ね返る。でも私は馬場さんから、ロープをつかまず半身でもたれかかると学んだ。体格差もあるのでそうすると、次の攻撃にスムーズに移れるんです。だから僕は若い選手よりもロープワークが速いんですよ」

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痛かった、馬場チョップ