Photo by Yoshihisa Wada
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「俺の」という意表を突いたネーミングで一流シェフの料理をリーズナブルに提供、新業態のイタリアンやフレンチレストランなどを展開する俺の株式会社。70歳を過ぎての新創業に挑んだ坂本孝社長が“俺の事業観”を語った。

●「俺の」のフランチャイズが始まり、ようやく「ブックオフ」が終わる

 2017年4月の「俺のフレンチ松山」に続き、18年1月には「俺のイタリアン新潟三越前」がオープンした。いずれも「俺の」業態では、初のフランチャイズ店だ。松山は、井本雅之さんが社長を務めるありがとうサービス、新潟は山本愛子さんが社長を務めるヤマモトマネージメントがフランチャイジーとして運営する。2店の開店で、私にとって「俺の」を立ち上げてからの悲願が実ったと感じている。

 私は中古書籍販売のブックオフコーポレーションを創業し、その後フランチャイズ化を進めて拡大させ、全国のフランチャイジーの力もあって同社を東証1部に上場させることができた。山本さんと井本さんは、ブックオフ創業当初から理念とビジネスモデルを共有して成長を支えてくれた人たちだ。

 1991年のブックオフの創業当時、フランチャイジーとして新事業を模索していた人たちとは、パパママショップの電気屋さんだったり、寂れつつある商店街の衣料品屋さんだったり、大手に圧倒されている地元スーパーだったりした。つまり時代の逆風にもろにさらされていた人たちだ。

 彼らの多くが憧れていた新事業は、本とCD、レンタルビデオのマルチパッケージ店であった。しかし、その店のオーナーになるには億単位のカネを用意しなければならない。すでに借金を抱えている彼らには、そんなカネはとても用意できない。

 一方、ブックオフならば数千万円。なんとかカネを揃えられる金額だ。今にも店が潰れそうな人ばかりが集まってきていたので、オーナー会をやると昔の借金の自慢大会になるほどだった。私が個人的に連帯保証人になってブックオフを始めた人もいる。ブックオフのフランチャイズビジネスは、こうした集団が理念を共有して拡大してきたものだった。

 だが私は、2007年にブックオフ社内の不祥事を告発する記事が『週刊文春』に掲載されたのを機に、責任を取ってブックオフの役職を辞任。32%あった持ち株もすべて売却した。そこにどんな感情の流れがあったかは、今後この連載でも述べようと思っているが、とにかく命まで共有するほどの熱意でつながっていたフランチャイジーの人たちを見捨てる形になったことは否めず、それが私の中に悔やむ気持ちとして残り続けていた。

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縁もゆかりもない飲食業を始めた理由