なかでも、より切実さを感じさせたのは被災地出身の畠山直哉と平間至の現状だった。被災前後の岩手県陸前高田市の風景を並べその変貌を示した畠山だが、彼自身の写真観が激しく動揺していることを語っている。

 それまで畠山は、写真の良しあしを判断する基準に、写真家の個人的な事情が加味することはまれであると考えていた。写真家が求める「いい写真」とはより普遍的なもののはずで、それが「近代写真芸術の美学を咀嚼したオトナの判断態度」なのである。しかし震災で母を亡くし、懐かしい風景を失ってしまうと、それが激しく揺らいだ。

「見渡す限りの瓦礫の中で、自分や家族や知り合いのことを思うとき、そしてそれが写真にはもう写せないと覚悟をするとき、『いい写真』は、空疎な響きしか持たない言葉のように思えてくるのです」

 それでも、畠山は、この状況を明確に撮影することを選んだ。その理由について「率直に言えば、僕は誰かにその写真を見せたいというより、誰かを超えた何者かに、この出来事全体を報告したくて写真を撮っている」のであり、「その『何者か』が、後で困惑しないようにとの思い」を強く持つようになったからだ。 一方、宮城県塩釜市出身の平間は、現地の被災状況を撮ろうと考えたものの、途方もない被災のスケールを前にしてやめたと語っている。平間が選択したのは、具体的な支援活動だった。その後、平間は仲間と活動を重ね、10月には自らがプロデューサーを務める「塩竈フォトフェスティバル」の開催にまでこぎつけている。

 震災は多くの写真家に、それまでの活動について見直しを迫った。被災地を訪れようと訪れまいと、自らが生きる時代を記録することの責任を認め、この事態を咀嚼する方法論を自問させた。

「コモディティー化」を超えて

 震災直後に求められたのは、この惨状を明確に記録した報道写真である。まず各新聞社や通信社から、震災特集や写真集が出版されて、いずれもよく売れた。ことに被災地ではよく読まれたと報じられている。

 本誌編集部が11年9月に出した『東日本大震災――写真家17人の視点』も、直接的な作品で占められている。その巻末に掲載された松山巖のエッセー「事態と写真と希望の始まり」は、土門拳と木村伊兵衛の戦後の仕事、「筑豊のこどもたち」「ヒロシマ」「秋田」をこの震災に対する写真家の仕事を考える指標として書かれている。戦後の日本を象徴する報道写真家の仕事から、あらためて写真が持つ役割と可能性を思い起こさせた。だが、ヒューマニティーを喚起する報道写真の力が信じられた1950年代と、あらゆる映像が氾濫する21世紀において、そのような比較は可能なのだろうか。

 2012年になると、ショックもおさまり、震災をめぐる写真表現や評論も多様になる。前年の動向を振り返る1月号の特集「写真家の仕事2012」では、写真評論家の上野修が、発表された展覧会や写真集の膨大さを取り上げ、それを「コモディティー化(日用品・一般化)」と呼び、東日本大震災はその現状を浮き彫りにした出来事だと指摘している。そんな時代であればこそ「20世紀のように、そこから出来事を象徴する一枚は、ついに生まれることがなかった」のだと。

 また同年6月号では、ホンマタカシがホストをつとめる「今日の写真2012」で「震災写真の一年」が、美術批評家の椹木野衣と論じられている。ホンマは数多く出版された震災写真集を概括して「1年たって見ると、結局はみんな同じように見えて、かえって報道写真の役割が終わった感が出てしまったような気がします」と述べた。

 椹木は同じように見えてしまう理由について、ファインダーを挟み、あちら(被災)側とこちら(日常)側とを隔てる意識が作用しているからだと言う。「そこが写真家の特性で、そこを踏み越えたら写真家ではなくなってしまうかもしれない」のだ。そして、この一線を最も強く意識していたのは篠山紀信だと評している。大判カメラで被災地を撮影した『ATOKATA』(日経BP社)に、椹木は「社会的非難を浴びてもかまわない。写真とはそういうものだ」という覚悟を読み取っていたのだった。

 だが「コモディティー化」を逃れ、「隔てる意識」を乗り越えようとする表現は、この時期から目立ち始めたといえる。それらは総じて、速報性ではなく継続性をもったまなざしから生まれた作品のようだった。

 この年の木村賞作品、選評で瀬戸が「あの日の出来事は、この写真集『東北』によって記憶されるだろう」と述べた、田附勝の写真集『東北』(リトル・モア)もそのひとつだろう。06年から東北各地で、縄文の宗教的気配を伝える狩猟文化を軸に撮影を重ねてきた労作は、この厄災を直接示してはいない。だが過去何度も起きた同様の震災を乗り越えてきた、東北人たちの歴史を想起させるものだ。そして受賞以降も田附は東北での撮影を進め、13年には『KURAGARI』(SUPERBOOKS)を発表、本誌にも作品(4月号)とインタビュー(5月号)が掲載された。13年の1月号からは、誌上での継続的な発表としては、半年ごとに掲載される関根学の「フォールアウト 汚染された地に生きる」が始まった。福島第一原発事故によって帰還困難区域に指定された飯舘村(長泥地区)の変化を撮り続けるプロジェクトは、今なお続けられている。

 同号には、志賀理江子へのインタビューも掲載されている。せんだいメディアテークで、前年の11月から1月中旬まで開催された「螺旋海岸」展について、演劇や喪の儀式に似た雰囲気を醸した同展は、大きな話題を呼んでいたのだ。

 地域の人々の話を聞き取り、そこから発想したイメージを演じてもらうという撮影手法。それをパネルに仕立て、暗い照明のもとで螺旋を描くように屹立させたインスタレーション。それらは08年から宮城県名取市の北釜で過ごしてきた体験の反映だった。

 志賀は、「同地の専属カメラマン」となり、自作のためのリサーチとイメージのスケッチを重ねてきた。震災直後は、写真の洗浄ボランティアを体験して「写真の持つ価値は果てしないし、振れ幅が大きいという」ことを実感したと語っている。

 志賀の場合、もともと「写真との、ある宗教的ともいえるつながり」(09年4月号のインタビュー)を感じていたという。それほどでなくとも、震災はいや応なく「人と人」「人と場所」を強く結びつける作用を再認識させたようだ。畠山のいう「近代写真芸術」とは違う、それ以前に起源をもつ、呪術的な可能性に気づかされる契機となった。