医療(ここでは西洋医学に基づいた医療を指します)という職業を一言でと問われたら、「科学(医学)という道具を使って、人間が持っている壊れた部分を見つけ出して、それを修復すること」だと答えています。私も含めた医師たちは卒前の医学部教育から卒後専門家としての生涯にわたる成長の過程で、ずっと「科学(医学)という道具を使って、人間が持っている壊れた部分を見つけ出して、それを修復する」ための能力を磨き続けることに邁進していきます。そして、患者が持っている問題を最速で見つけ出し、最適な解をそこに提示することができる人間が「名医」と呼ばれます。そのプロセスにおいて重要になるのは、「逸脱していることは悪いことである」という前提や、「すべての病気はメカニズムの破たんに基づく因果モデルで説明することができる」という前提、さらには、「問題は解決されなければならない」という前提であったりします。このような前提をもとに、私たち医師は日々のトレーニングを続けています。いうなれば、医師は、問題を特定し、評価し、因果モデルに基づいてその問題を迅速に解決するエキスパートとしての訓練を受け続けている職種であるといえます。それは、一方向性で、絶対で最適な解を導き出す思考を表しています。

 しかしながら、私自身は医療が持つそのような特性に言いようのない歯がゆさをずっと持ち続けてきました。そもそも人間はそれぞれ違っているし、昨日の自分と今日の自分も違うし、他者から見て破たんしていても十分に幸せな人たちもたくさんいます。個別の人間が持っている特性を「排除あるいは修正されるべき逸脱」としてとらえることや、患者が発する「痛い」という言葉を「情報」としてとらえることは、西洋医学においては当然の考えなのですが、私にとってはとても違和感がある考えだったのです。私の医師としての人生は「問題解決のエキスパート」としての医師のアイデンティティとのコンフリクトを問い続ける人生でもありました。

 本書のレビュー依頼を受けたとき、私は直感的に「私と同じような違和感を覚え続けていた人かもしれない」と思いました。そして、その直感は当たっていたようです。著者は10年以上にわたり血液内科医(白血病などの病気を専門とする内科医)として大学病院で診療活動と研究を行っていたが、西洋医学的な思考の枠組みを超えた部分に惹かれ、その後哲学者で武道家でもある内田樹氏に師事するという興味深い経歴を持っています。おそらく著者の佐藤氏は、因果モデルによる問題解決の方法論が持つ違和感の答えを武道に求めたのかもしれません。私は武道については全くの素人ですが、感覚的に「身体知性」という言葉は、因果モデルの世界で生きてきた人間が、武道を通じて発見した感覚を表しているのだろうと腑に落ちるところがあります。武道を見ていて感じるのは「優しい」という言葉です。一つ一つの関節や筋肉、そして体全体が持っているバランスが、組み合った相手に対する共感をもたらすのかもしれません。一方で、脳、あるいはテキストのみに支配されている世界は残酷です。SNSなど、他者がお互いの体温を感じることができないところで行われているやり取りはとても凶暴で思いやりにかけます。私が西洋医学に覚えている凶暴さは、脳が体を支配している世界が持つ凶暴さなのかもしれません。

 私の場合、「脳が支配する知性」以外の知性を呼び起こしてくれているものはバンド活動です。バンドのセッションでは、譜面をそのまま完璧に演奏したとしてもいい音楽にはなりません。そこには「グルーヴ」がないのです。ベースやドラムの演奏者が持つその時その時の体調や感情が乗った「ブーン」とか「バスン」とかを感じながら「ギューン」と鳴らすのか、「ジャキーン」と鳴らすのかが瞬間瞬間で決まっていきます。そして、それは明らかに理性がやっているものではありません。他者や社会とつながっているのは脳よりも身体なのです。本書の主張は、身体という知性が持っている他者とのつながりを感じ、他者への優しさを送る能力、そして、コミュニケーションの本質とは、情報のやり取りではなく、自己と他者が交わりながら変容していくしなやかなプロセスであるということなのかと解釈しました。人工知能ブームの昨今、「インプットする」ことと「感じること」の違い、あるいは、「ともに考えること」を見つめ直すためのヒントが本書にあるような気がします。

 ところで、「腑に落ちる」という言葉はまさしく身体知性をよく表現している言葉の一つかもしれません。ホント、「腑に落ちる」って素敵な言葉だと思います。