その頃、早稲田は早慶戦でいい成績を残せていなかった。62年から64年までで、勝ち点を上げることができたのは64年春の一度のみ。また、62年春は4位、その後、63年秋まで5位に沈んでいる。
「コンバットマーチ」の作曲者で、当時、応援部吹奏楽団の4年生だった三木佑二郎さん(79)はこう振り返る。
「試合の結果は悪くても、応援に来てくれた人たちには楽しんで帰ってもらいたかった。だから、早稲田が振るわなかった当時はいろんな応援の方法を考えていたんです。それで65年秋の早慶戦前に作ったのが『コンバットマーチ』でした。3日間徹夜しましたね」
■永遠のライバル 早稲田と慶應
トランペットの力強い音色が印象的な「コンバットマーチ」。三木さんは作曲の意図をこう話す。
「当時、吹奏楽団は応援歌のバックバンドでしかなかった。要はカラオケの音楽のようなものですね。これを何とかして、トランペットのファンファーレと人間の声を組み合わせた応援を作り出したかったんです」
現役の応援部員である永田新さんは同曲を「必勝の曲」と話す。「この回に点を取りたいという、ここぞの場面で使う」。井原遥斗さんも「この曲が流れると球場全体が盛り上がって、自分たちの気も引き締まる」。
応援曲の効果もあり、65年秋、翌春、秋の早慶戦で早稲田は勝ち点を上げた。
慶應も負けていない。翌66年には「ダッシュKEIO」を作り、対抗していく。同年秋は最下位だったが、翌67年には見事優勝を果たした。
120年間、名勝負を繰り広げてきた早稲田と慶應義塾とは、どのような関係なのか。
清澤さんはこう語る。
「優勝を目指すのは当たり前。最後に慶早戦で決めるのが夢だった。たとえ優勝の芽がなくなっても早稲田にだけは負けるな、というのが根底にあったね。他大学に負けるのと早稲田に負けるのではショックが違った。こういう関係がなかったら六大学野球は盛り上がってなかったと思う」
そしてこう続ける。
「慶應は自由な気風があって、入って本当によかったと思う。ただ、在学中に優勝することができなかったのが心残りだね。やはりテッペンからの景色を見たかった。早稲田には試合に勝ち切る『厳しさ』があったと思う」
一方、徳武さんは慶應を「最高のライバル」と評す。
「慶應がいてくれるからこそ、早稲田も頑張れるし、慶應だったからこそ、歴史に残る早慶6連戦というドラマを作り出せたんだと思う。これまでの先輩たちがつないできた伝統と歴史がそうさせるんだろうね」
徳武さんはいまでも時々母校に通い、選手の指導に当たっている。
「早稲田に育ててもらったから、その恩返しだね。話は変わるけど、自分は常々『砥石(といし)』という言葉を大事にしている。自分自身が選手や指導者の頃、石井(連蔵)監督や先輩たちに磨いてもらいながら人生を歩んできた。そうしてつないできた『早稲田の精神』を後輩たちに伝えていかないといけないと思うね」
先人たちに磨かれてきた「早慶戦」という伝統。今年は、5月27日に熱戦の火ぶたが切って落とされる。(本誌・唐澤俊介)
*早慶戦の歴史や記録の多くは、『早慶戦全記録』(堤哲編著 啓文社書房)によった
※週刊朝日 2023年5月5-12日合併号より抜粋