写真美術館への戸惑い

 昭和天皇の崩御によって昭和64年は1週間で終わり、8日から平成元年となった。長い昭和時代の終幕は、日本人それぞれに深い感慨を抱かせ、あらゆるメディアで昭和史の読み直しが盛んに行われた。本誌では90年に「写真人の昭和」が企画され、昭和期に活躍した写真家、企業人、技術者らを訪ねその証言を記録している。

 一方で、この年はダゲールによる写真術の公開から150年という節目でもあった。世界各地で大規模な記念イベントが開かれ、日本でも「写真150年展 渡来から今日まで」などが開催されている。本誌はそれにあわせ6月号で特集「写真150年」を組んで、日本の写真術の黎明を振り返った。

 この記念すべき年を挟み、もっとも注視されていたのが写真美術館の誕生だった。88年に川崎市市民ミュージアムが、89年には横浜美術館という写真部門をもった美術館が開館し、90年6月には写真と映像の総合的な施設として東京都写真美術館が第一次開館を果たしている。また東京国立近代美術館も写真作品の常設展示を始めた。

 ほかにも、90年には写真を含むジャンル横断的な展示を行う茨城の水戸芸術館や、長野県安曇野市の田淵行雄記念館も誕生。同年4月から半年間、大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」では「花博写真美術館」が伊藤俊治の監修で設けられている。

 続々と誕生する写真美術館について、本誌はニュース欄や特集で詳しく伝えた。ことに88年10月号「徹底取材『いよいよやってくる「写真美術館」時代』では、各地域での取り組みも紹介されている。戦前の関西写壇の発掘に力を入れる兵庫県立近代美術館、京セラを通じて千点もの写真コレクションを入手した京都国立近代美術館、あるいは意欲的な「日本現代写真史展」の開催を企画している山口県立美術館などである。さらに90、91年には「世界の写真美術館」が連載され、世界各国の施設がリストアップされた。

 これらの美術館では写真史の文脈を概観する展示が行われる一方、コンストラクティッドフォトに代表される現代美術としての表現を展観する企画も盛んだった。「現代美術になった写真」(87年 栃木県立美術館)、「脱走する写真― 11の新しい表現」(90年 水戸芸術館)、「移行するイメージ 1980年代の映像表現」( 90年 京都・東京国立近代美術館)、「日本のコンテンポラリー 写真をめぐる12の指標」(90年 東京都写真美術館)などである。これらの展示は、美術関係者には好評だったが、一般的な写真ファンからは戸惑いが示された。写真関係者のなかには、美術史に写真史が吸収されることを危惧する人たちも少なくなかった。

 そこで90年10月号では、特別よみもの「現代美術と写真との“危険な関係”」が企画され、「写真を過剰なまでに現代美術にとり込もうとする動きとはいったい何なのか」を写真家の大島洋、美術評論家の高島直之、文化論の赤坂英人の3人が、それぞれの立場から論じている。このなかで読者には大島の論考「いま、写真にこだわること」が響いたのではないか。

「写真は絵画や現代美術との境界領域に活路を見出すことのみに汲々となるのではなく、物を見ることに徹し、身体そのものを目にすることによって、しかもそれを一度ひっくりかえして、なおかつ写真にこだわることによって、もっともっと写真の楽しさや面白さは夢見られてよいと思う」「あえて頑迷さの役割を演じて」大島はこう述べ、論考の最後を「写真はこれから独自の道を模索する、その入り口についたばかり」と結んだ。

ネイチャーフォト

 この80年代末の本誌のグラビアには、明るく健康的な作品が多い。沢渡朔、渡辺達生、小沢忠恭らの爽やかな色気を放つヌードやポートレート、叙情性をもった淺井愼平、稲越功一らの作品などが読者の目を引きつけている。

 また新人では、88年11月号に初登場した武田花の「眠そうな町」が新鮮な印象を与えた。再開発時代に取り残された、人影の消えた町々を撮った縦位置のモノクロのスナップは、同じ世代のランドスケープの作家とはまた違った懐かしくも不思議な都市の姿を描写していた。武田は、このシリーズで90年に木村賞を受賞した。

 モノクロのスナップといえば、椎名誠の「旅の紙芝居」が89年4月号から始まっている。この朗らかな紀行エッセイは安定したファンを獲得、92年の「人間劇場」を経て、93年からは「シーナの写真日記」として現在にいたる超長期連載となった。

 もっとも支持を集めていたのは、前号も触れたように、自然を対象とした写真家である。88年から2年間続いた企画「シリーズ〈ネイチャー〉」ではベテランの薗部澄をはじめ、竹内敏信や宮嶋康彦などの多彩な風景作品が掲載され、90年には竹内の「ヨーロッパ新風景」が連載された。さらに、人気にともない撮影地のガイドやハウツー記事も、より詳細で充実したものになっている。

 こうした誌面を求めていたのは、おもに時間的にも資金的にも余裕のある中高年だった。自然相手では最適な撮影環境になるまでロケ地で長く待つ場合も多く、精度の高い最新のAF一眼レフカメラや交換レンズが求められる。こうした条件を満たせる中高年層が熱心に作品づくりに励んだことで、プロとアマチュアの境界は薄くなった。風景写真はブームとなり、専門誌が創刊されたり、90年9月には本誌増刊「最新風景写真講座」が出されたりするなど出版界の追い風ともなった。

 風景写真ブームの一方で、生態学的な観察をもとに、自然と人間との関わりをテーマとした、スケールの広がりを持った写真家の仕事も際立っていた。木村賞の受賞者でいえば、中村征夫(88年)、星野道夫(90年)、今森光彦(95年)らがそうである。

 中村は開発の代償として汚染が進んだ東京湾をめぐり、海中生物と人の暮らしをルポした『全・東京湾』(87年 情報センター出版局)を発表。星野はアラスカに腰を据えて、野生動物を軸に現地の人々の文化的変容をみつめた。そして今森は、自然と共生する伝統的な暮らしの場を里山と名づけ、昆虫を軸にそのありさまをとらえたのだった。これらは文化人類学的な意味を持った作品として評価されている。

 この80年代末から90年代初め、都市へ向かうランドスケープと自然へ向かうネイチャーフォトという志向の違いはあっても、若い写真家たちは共通した認識と危機感を持っていた。人間がつくりだした環境に対する彼らの鋭い批評性が、その作品に結晶していたのである。