●不特定多数の「豊洲移転」論がいつの間にか既定路線に
これまでもちょくちょく報じられたが、東京都が「豊洲移転」を匂わせ始めたのは、まだ石原さんが国会議員だった1995年にさかのぼる。
『東京魚市場卸協同組合五十年史』には、市場当局と港湾局が協議し、港湾局から大田区の城南島、江東区の豊洲への移転の可能性を示唆された、という記述がある。
このあたりを境に、官・民・学が一丸となって「豊洲移転」を持ち上げていく。97年になると、大蔵事務次官から国際開発銀行総裁となった平田敬一郎氏が顧問を務め、学者と若手官僚が集まった「乃木坂研究会」が、「中央卸売市場を晴海または豊洲地区へ移転・整備するためのコンセプトと具体的な計画案」(97/10/02 日経流通新聞)を出した。
さらに、これに触発されるような形で、98年3月になると、築地市場の卸や仲卸など業界八団体が「豊洲地区(江東)への移転の可能性を検討するよう都に要望」(98/03/10 日本経済新聞)する。
はっきりとした顔の見えない、不特定多数の「思惑」によって、徐々に築地移転という道は「豊洲」に続くように誘導されていくのだ。
石原氏が「百条委員会」で豊洲の土地選定について「青島知事からの引き継ぎだった」と述べているように、豊洲移転のレールは石原氏が99年に当選した時点では、既にビタッと敷き詰められていたのである。
いや、移転は決まっていたかもしれないが、これまでも「城南島」とか「晴海」などの名前が出ているじゃないか、そっちへ行かず、東京ガスの跡地なんかに強引に決めたというのは、石原・浜渦コンビに何か利権的なものがあったからだろ、という人もいるだろう。
もちろん、その可能性もなくはないので、そこはぜひ立派なジャーナリストのみなさんに調査報道で明らかにしていただきたいのだが、一方で、このお二方の力をもってしても覆すことのできない「都庁の大きな流れ」というものが、実際にあったというのも紛れもない事実である。