●臨海副都心誕生の「功労者」江東区への“配慮”
年配の方は覚えているだろうが、戦後から70年代にかけて「東京ゴミ戦争」というのがあった。都民の生活水準が上がって大量のゴミが出ると、それらはすべて夢の島の最終処理場へ向かったが、通り道の江東区は悪臭などが問題になっていた。都は新たな清掃工場をつくろうとしたが、杉並区が住民の激しい抵抗で拒否。それを受けて、江東区は杉並区からのゴミの受け入れを拒否するという事態に発展した。その時、夢の島へ続く道路に仁王立ちするという力技でゴミ受け入れを阻止をしたのが、先の小松崎区長だ。
つまり、江東区というのは、臨海副都心開発をしていくうえでの、そもそもの大前提である「湾岸エリアの埋め立て」の最大の功労者であり、同時に最大の犠牲者だったのだ。
政治や行政が「犠牲者」になにかしらの「優遇措置」を与える、というのは米軍基地のある沖縄や、原発を誘致した自治体を見ても明らかだ。当初、市場の移転先として候補として名前が挙がった「城南島」は大田区、「晴海」は中央区である。「犠牲者」である江東区が優先され、これらの名前が候補から消えるのは、ある意味で当然だった。
そう考えていくと、臨海副都心構想の進捗とまるで足並みをそろえるように、築地の移転先として「豊洲」が本命になっていくという不可解な動きが理解できる。
臨海副都心の開発推進を公約にして99年に知事になった石原氏は就任直後、「お台場カジノ構想」をぶち上げる。これが江東区の神経を逆なでした。
シェアや歴史的経緯で言えば、「13号埋立地」の盟主は江東区になるはずだった。だから、江東区は「臨海部の将来のシンボルゾーンにふさわしい町名になるように」という願いを込めて、「青海」というこじゃれた地名をつけた。しかし、注目の新都知事が「お台場」という表現をメディアに繰り返し用いたことで、あのエリア一帯は「青海」ではなく、「お台場」という港区のイメージが強くなってしまったのだ。