その後、「ゆりかもめ」は小松崎区長の求めたとおり、豊洲までつながった。パレットタウンや大観覧車のおかげで「青海」も賑わっているが、それでもあの一帯は「お台場」と呼ばれることが多い。
臨海副都心開発という「大きな流れ」を進めていくなかで、「犠牲者」が冷遇されている現状に鑑みて、東京都庁の内部で「新市場はとにかく豊洲へ」という「忖度」が生まれた可能性はないか。
●隠然たる権力を振るってきた東京都港湾局
事実、東京都政がこのような「大きな流れ」にめっぽう弱いことを示す事実がある。実は臨海副都心開発構想は91年に頓挫しかけたことがある。バブル崩壊によって地価が下落、地代収入が急激に落ち込んで資金難に陥ったのだ。都議会もノーを突きつけて予算凍結。この一大プロジェクトも幻に終わるのかと思われた時、副知事を委員長として発足した臨海副都心開発再検討委員会が全体のスケジュールを3年遅らせば実現できると言い出した。
その副知事は高橋俊龍さん。港湾局の出身である。
「お台場カジノ」や「東京ガス跡地」の印象があまりにも強いので、港湾まわりの利権というと、石原氏や浜渦氏がすぐに結び付けられるが、彼らは所詮、明治時代の「東京市」から100年続く港湾開発の、ほんの一時期に登場したプレーヤーにすぎない。
この連載でもかつて述べたが(「小池知事が豊洲騒動で見せた巧みな情報操作術とは?」参照)、湾岸エリアの事業、先ほど触れた埋立地案件も含めて、すべて港湾局の「縄張り」である。それは豊洲もしかりで、 『「豊洲」という地名も、工事を担当した東京市港湾局が賞金百円で職員から募集して選んだといわれる』(朝日新聞99年9月13日)という戦前からの深い因縁がある。
東京ガスと浜渦氏の水面下の交渉を追及するのもいいが、この人が交渉にあたる前から、臨海副都心開発の旗振り役をしていた今沢時雄港湾局長が、東京ガスに顧問として天下りし、取締役の席に座っている。
石原・浜渦コンビのキャラクターの強さについつい目を奪われがちだが、こうして経緯を丹念にたどっていくと、東京都港湾局がしばしば“豪腕”を振るっていたことが分かる。石原氏が言及した、都知事さえも逆らえない「都庁内の大きな流れ」を、単に石原氏の責任逃れと捉えてしまっては、東京都庁の抱える闇をみすみす見逃すことになるのではないだろうか。