●豊洲新市場誕生を後押しした東京都の「忖度」の中身
それは具体的に言ってしまうと、「臨海副都心構想を進めるのなら、新市場を江東区へもっていってあげよう」という、東京都の「忖度」である。
なぜ、都が江東区の顔色を伺わなくてはいけないのかということをご理解していただくためには、バブル真っ盛りの頃に時計の針を戻さなくてはいけない。
東京都が「臨海部副都心開発基本構想」をぶち上げたのは87年。ちなみに、石原氏はまだ国会議員として清和会に合流したあたりで、浜渦氏も公設秘書として、永田町のど真ん中にいた。
都心から約6キロの東京湾埋め立て地(440ヘクタール)に国際化、情報化に対応した副都心を2000年までに建設しようというこの構想は、今からは考えられないほどバブリーな開発規模や費用だった。
なぜこんな超巨大プロジェクトが可能になったのかというと、都による「調整」がうまくいったからである。
というのも、実はこの開発の中心となる「13号埋立地」(現在のお台場エリア)は「領土問題」に揺れるパレスチナのような存在だったのだ。結局、問題は以下のように解決した。
「13号埋立地を江東区、港区、品川区が帰属を譲らず、最後は東京都の調停により、江東区7割、港区2割、品川区1割で決着を見たのです」(江東区ホームページ・区政最前線~区長室から~平成28年4月)
この分割案が82年に受け入られたことで、臨海副都心開発構想は大きく動き出した。つまり、東京都にとって13号埋立地の「7割」の帰属を持つ江東区というのは、臨海副都心開発を進めていくにあたって常に顔色をうかがわなくてはいけない存在となったのだ。
「都」が「区」に気を遣うなんてことがあるわけないだろ、と思うかもしれないが、江東区に限ってはある。それを如実に示すのが、87年当時、都心と臨海副都心をつなぐ新交通システム(現在のゆりかもめ)が新橋~お台場間までしか想定されていなかったことに対して、小松崎軍次区長(当時)が不満をもらして臨海副都心と江東区を結ぶ路線を求めた際に発したこの言葉だ。
「臨海部の埋め立て地は投棄ゴミの通過道となった江東区の犠牲の上に完成したことを忘れてもらっては困る」(87/11/07 朝日新聞)