「軽さの美」という感性

 前年から選考委員も代わって、85年の第10回木村賞には田原桂一の写真集『TAHARAKEIICHI1973-1983』 (G.I.P)が満場一致で選出された。78年の選考では「写真が絵画的な美術に近づきすぎる」 (岡井輝雄)とされた田原だが、さらに表現の幅も広がり、肖像や建築などのテーマでも実績をつくっていた。この受賞に対して編集長の相沢は「彼の目によって無機物も一つの感0性0の表象となる」 (4月号、傍点筆者)と賛辞を贈っ ている。「感性」という言葉は、時代や場に漂う空気や気分を直観的に表現するセンスを指す。80年代なかばに登場する若い写真家には、この「感性」を重視する傾向が多くみられた。

 翌86年、最年少の27歳で同賞を受賞した三好和義はまさにその代表といえた。受賞作の『RAKUEN』 (小学館)はインド洋のモルディブやセーシェルで撮影された、まさに楽園的な風景を集めた写真集である。三好はかねて憧れていた島々の風景のなかで、どう撮るかさえ意識せず「趣味に熱中するように、楽しく撮っていた」 (4月号「受賞のことば」 )と語っている。選考委員の大辻は、そんな三好の写真に「軽さの美」を見いだし、 「いまの時代が潜在的にそれを求めている」のだと評した。

 感性の重視から生まれる「軽さの美」は、同時代の傾向を表すキ ー ワ ー ドといえた。そこで同年7月増刊号「現代の写真83-85」で、 座談会 「 『軽さ』の意味するもの『現代の写真』を語る」が企画されている。出席者の柳本尚規は、これまでは生きる喜びの率直な表現より、苦しみ模索する表現への評価が高かった、いまや前者が肯定されていると分析し、 「その意味で一つの規範が消えた」のだと述べている。

 この「軽さの美」は、ことに自然風景をテーマとした作品によくみられた。それらはヴィジュアル化が進んだ雑誌のグラビアやカレンダーに採用され、あるいは三好の『RAKUEN』のように、カジュアルに楽しめるしゃれた写真集として人気を集めていた。

 ことに人気を博したのは前田真三の風景写真だった。日本画的素養とモダンなデザインセンスを持つ前田は、西洋的でさえある北海道美瑛町の田園風景を鮮やかに切り取り、広いファンを獲得していた。本誌でも86年12月号で特集「前田真三・日本の風景20年」が組まれ、同地に個人美術館「拓真館」を開いた翌年にも12月号でインタビューが企画されている。

 前田の後に続く若い才能も、本誌で活躍をはじめた。先駆したのは85年に写真集『天地聲聞日本人の原風景』(講談社)を出版した竹内敏信、そしてマクロレンズを駆使したファンタジックな植物の接写で「自然写真家」を自称した木原和人の2人だった。ことに木原は若い世代に人気があり、86年1月の本誌ヤング増刊「フォトボーイ」でも大きく紹介されている。だが翌年5月に病を得て40歳の若さで急逝してしまった。

 以降、自然を感性で表現する写真家が相次いで登場して、本誌に活気をもたらす新たなあるエネルギーとなっていくのである。

「孫たち世代」の書き手

 苦戦していたのは老舗の写真雑誌だけではない。80年代初めに創刊された「写楽」 (小学館)と「フォト・ジャポン」(福武書店)も同様で、ともに86年で休刊している。

 こうした環境のなかで編集長となった藤田は、まず「読者をはっきりイメージすること」 ( 「朝日新聞出版局史」 )からはじめ、その結果「写真好き、カメラ好きのアマチュアの趣味雑誌」と方向性を決めた。具体的には写真やカメラをめぐる情報をわかりやすく提供しつつ、グラビアからは暗く汚い感じの作品を除き、 「広く第一線の作家を網羅して、ひとつの傾向に走るのを避ける」というものだった。

 86年1月号から始まったリニューアルでは、まずデザイナーに亀海昌次を起用して、誌面レイアウトを明るく軽快にした。巻頭に国内外の豊富な写真情報を軽いタッチで紹介する「ビジュアル・パレット」欄を設け、 「還暦を迎える雑誌に孫たちの世代が積極的に参加するページを増やそうという流れ」 (編集後記)をつくった。

 執筆陣にも孫世代といえる若手の研究者やライターが起用された。なかでも中心になったのは飯沢耕太郎だった。筑波大学大学院で写真史を専攻した飯沢は、86年に博士論文を『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)にまとめて評価を得ている。本誌では前年1月号の展評欄「写真展を歩く」から連載を持ち、 「指のあいだを滑り落ちる『砂粒』のような『現在』の写真の状況を、写真史の背景から照らし出してみることで、もっと深みのあるくっきりとした像を描き出すことができないかと考えている」とその立場を述べた。

 飯沢のほか「写真廃墟論」(86年4月号)などを執筆した伊藤俊治や、平木収、金子隆一ら研究者も写真史を踏まえて現在を語りうる、新しい書き手だった。

 彼らはまた、ツァイト・フォト・サロンの石原悦郎のもとで、写真史の研究会を設けていたメンバーでもあった。石原
85年のつくば科学万博開催にあわせ、時限的に「つくば写真美術館85」を企画するとそのキュレーター役を務め、都市論としての写真史を概観するという大規模な「パリ・ニューヨーク・東京」展を実現させていた。

 半年間の期限付きとはいえ、日本初といえる総合的な写真美術館の開館は関係者の注目を集めた。主宰の石原は85年3月号のインタビューで、その成算を次のように語っている。

「今回の美術館で最低五十万人入るだろうと思っています。そしてそれを資金に、ヨーロッパに若い写真家が集まって自由に仕事ができるスタジオをつくるのが私の夢です」

 ところがこのもくろみは全く外れ、石原は多額の借金を背負うのだが、若い研究者たちがその現場で得た経験は大きかった。このほか新しい書き手のなかに、アメリカからリポートを寄稿していた笠原美智子もいた。現地の大学院で写真を専攻し、日本にはなかった徹底したフェミニズムとリベラルな観点を学んだ笠原の視点は異彩を放っていた。

 この笠原や「つくば写真美術館85」の研究者グループは、数年後に誕生する写真美術館という場において、その手腕を発揮することになる。本誌の時代に応じた誌面改革は、こうした新しい時代にかなった才能に支えられて前進をはじめたのだった。