
昭和の自民党を知る者たちはみな、「変わった」と口をそろえる。その自民党では、石破おろしをめぐり、党内と世論のズレも顕在化している。
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「今の自民党は無難な議員ばかり。昔は奇人、変人、怪物のような政治家が少なからずいて、圧倒されたものです」
こう話すのは、1973年から94年まで自民党職員を務めた政治アナリストの伊藤惇夫氏だ。衆院選において採用されていた中選挙区制が、多様性を支えていたとみる。
“過半数”が絶対目標の自民党は、定数5の選挙区であれば3人以上は候補者を立て、各候補者は党の看板ではなく独自の強みを打ち出して勝負する必要があった。そのため、個性豊かな議員が続々と誕生したというわけだ。
「税制のスペシャリストだった山中貞則氏や、野党との太いパイプで国会運営を円滑に進めた金丸信氏などが典型。自民党は、様々な分野のプロフェッショナルが集結したカラフルな政党でした」
旧群馬3区では福田赳夫氏、中曽根康弘氏、小渕恵三氏がしのぎを削り、福田氏、中曽根氏に挟まれた自身を「ビルの谷間のラーメン屋」と評した小渕氏を含めて全員が首相にまで上り詰めた。
しかし94年に“政治改革”として予算案可決や首班指名などで、「優越する」衆院に小選挙区比例代表並立制が導入されると、事情は変わる。各選挙区1人しか当選しないため、万人受けする経歴を持つ“優等生”や、確実に得票できる世襲候補ばかりが公認されるようになった。伊藤氏が続ける。
「鰻屋の秘伝のタレよろしく、親から受け継いだ支持基盤頼みで政界に身を置く世襲議員は“政治屋”です。自分が議席を守れる現状に満足し、国家観もチャレンジ精神もない議員ばかりでは、党は老朽化し、疲弊していきます」