今ある幸せは当たり前の幸せではない

──ほかにもきっかけはありましたか?

元:私が鹿児島県の奄美大島出身ということもあります。若い世代にはあまり認識されていないかもしれませんが、奄美群島も沖縄と同じように、かつて8年間アメリカの統治下にありました。戦時中、奄美の多くの人が関西方面に避難したと聞いています。ところが、広島と長崎に突然原爆が投下されて戦争が終わり、島を離れていた人たちは島に帰れなくなりました。当時はパスポートが簡単にとれる時代ではありません。手漕ぎの舟で故郷を目指して力尽き、家族との再会かなわず海に沈んだ人が何人もいたそうです。

はじめ・ちとせ/1979年、鹿児島県奄美大島生まれ。2002年「ワダツミの木」でメジャーデビュー。伝統民謡“シマ唄”をルーツに持つ。配信シングル「イムジン河」を8月8日にリリース(撮影/写真映像部・佐藤創紀)
はじめ・ちとせ/1979年、鹿児島県奄美大島生まれ。2002年「ワダツミの木」でメジャーデビュー。伝統民謡“シマ唄”をルーツに持つ。配信シングル「イムジン河」を8月8日にリリース(撮影/写真映像部・佐藤創紀)

──奄美では祖国復帰運動が行われたそうですね。

元:奄美大島の中心部、名瀬市(当時)の泉芳朗市長を中心に祖国復帰運動が起きました。デモを行ったり、断食をしたり。そんな活動が実り、1953年に奄美は日本に復帰しました。でも、島の中心から離れた瀬戸内町出身の私は、日本復帰までの苦難の歴史をほとんど知ることなく育っています。上の世代の方々の苦労を知ったのは復帰50年を迎えた2003年ごろです。島の各地で記念行事が催され、すでにデビューしていた私も参加させていただいたなかで、平和のありがたさ、今ある幸せは当たり前の幸せではないことを強く意識しました。50周年のときに島の歴史をみんなで考え直して、きずなが固くなったように感じました。

 そうした経験をきっかけに、平和への思いを歌うというライフワークがスタートしました。その延長に、戦後80年を迎えるこの夏の「イムジン河」のリリースや丸木美術館でのライブ映像の公開があります。

──アルバム「平和元年」、そして今回の「イムジン河」とカバー曲を選んでいますが、オリジナル曲を歌うという発想はありませんでしたか?

元:カバーを選んだことには理由があります。それは、私に戦争体験がないことです。戦争を体験していない歌い手の新曲よりも、戦争を身近に体験している人の強い思いが込められた曲のほうが、聴く人の心に響くのではないかと考えました。

(構成/ライター・神舘和典)

※元ちとせさんによる「死んだ女の子」の歌唱映像がYouTubeで公開中(→こちら

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