画家の丸木位里・丸木俊夫妻が共同制作した原爆の図・第2部《火》の前で(撮影/写真映像部・佐藤創紀)
画家の丸木位里・丸木俊夫妻が共同制作した原爆の図・第2部《火》の前で(撮影/写真映像部・佐藤創紀)

──「イムジン河」は北朝鮮で生まれた歌ですよね?

元:はい。でも、朝鮮半島に限らず、大小を問わず、様々な理由で自分の意思とは関係なく分け隔てられてしまうことはどこにでもありますよね。それでも、故郷を大切に思う気持ち、大切なものや人を守りたい気持ちは、みんな同じだと思うんです。そういうことを心に置いて、人々が豊かな気持ちでいられたらいいなという思いも込めています。

──同じくこの夏、YouTubeで歌唱映像を公開した「死んだ女の子」は、1945年8月6日の広島を舞台にした曲ですね。歌詞の主人公は7歳の少女。原爆で命を奪われた彼女の魂が悲しみ、苦しみを歌っています。

元:2005年、戦後60年の夏に配信リリースし、2015年のカバーアルバム「平和元年」にも収録した曲ですが、戦後80年の夏にあらためて届けたい曲です。

平和記念資料館で目にした「すさまじい記録」

──元さんは1979年生まれ。太平洋戦争が終わって30年以上経て生まれた世代です。なのに、なぜ、これほどまでに平和を祈り、次世代へ向けて歌い継いでいるのでしょう。

元:2002年、デビュー直後にイベントの仕事で広島へ行ったのが最初のきっかけです。

──そのとき、広島平和記念資料館にも?

元:はい。そこがどんな場所かも知らずに、まるで観光をするような気持ちでプロデューサーについていきました。ところが、そこにあるのはすさまじい記録でした。資料館で見た被爆した子どもの写真、破壊された建物の写真、ボロボロになった服や三輪車……。目を覆わずにいられませんでした。原爆が投下されて広島や長崎の空にきのこ雲が立ち上る映像は何度も見たことがありました。でも、あのときに地上でどんな惨劇が起きていたのか。同じ日本でそう遠くない過去にこんなことがあったとも知らないまま大人になったつもりになっていた自分がとても恥ずかしかった。資料館から出て、いつまでも呆然と原爆ドームを眺めていました。亡くなっていった人への祈りを込めて、これからの平和のために、私には何ができるだろう──と、本気で考えました。

丸木夫妻による《南京大虐殺の図》の前で(撮影/写真映像部・佐藤創紀)
丸木夫妻による《南京大虐殺の図》の前で(撮影/写真映像部・佐藤創紀)

──平和のために、日本人は広島や長崎の資料館に成人する前に一度は訪れるべきかもしれませんね。

元:資料館では、外国人観光客がたくさんいらしていたことにも驚かされました。自分が海外へ行ったとき、必ずしも戦争の傷跡が残る場所を訪れてはきませんでした。そのことでも、やはり恥ずかしい気持ちになりました。

──シンガーとしてですか?

元:シンガーとしても、人としても。私は政治家ではありません。思想家でもありません。でも、歌い手としてなにかできるはず。歌うことによって、聴いた人が平和を考えるきっかけはつくれるかもしれません。それまで、私にとって歌とは、ただ自分が歌って楽しいもの、聴いた人が喜んでくれるものでした。でも、それだけではいけないことに気づかされました。歌うからには何かを伝えらえる歌い手にならなければという意識が芽生えたんです。

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