百貨店の「福屋」に運び込まれた被爆した兵士たち(撮影:宮武甫)
百貨店の「福屋」に運び込まれた被爆した兵士たち(撮影:宮武甫)

フィルム処分の命令

 火葬場を失った町では、夕方になると、あちこちで遺体を焼く人の姿があった。松本は親の遺体を火葬する3人の若者に声をかけて撮影したが、ファインダーをのぞく目からは涙がこぼれた。

 その後、枕崎台風にあいながら、船で広島へ向かった。映画館は鉄骨だけを残した姿になり、時計店は1階部分が押しつぶされていた。「戦死者之墓」などと書かれた立て札がある「縮景園」も撮影した。熱線、爆圧、爆風のすさまじさを目の当たりにしながら広島を撮影し、9月に東京へと戻った。

 だが、宮武、富重、松本の写真が大々的に報道に使われることはなかった。

 宮武は、終戦後に進駐軍から原爆関係の写真は提出するよう命令が出たことを受け、上司からフィルムをすべて焼却処分するよう言われる。宮武はそれを聞き流し、自宅の縁の下に隠した。松本が撮影した数百枚の写真も検閲を受け、ポジ写真がすべて没収された。ネガの提出も要求されたが、松本は自分で処分すると言い、個人のロッカーにしまい込んだ。

 そうして守り抜いた写真が伊澤の手に渡り、7年の時を経て冒頭の「アサヒグラフ」の編集部の会議にかけられていた。

 伊澤は全ページで原爆を特集することを決断。徹夜での編集作業が始まった。宮武、松本、富重の写真を中心に構成しつつ、巻頭は広島市の陸軍船舶司令部写真班員の尾糠政美が、似島で撮影した全身に大やけどを負った男女3枚の写真を選んだ。尾糠もまた広島で被爆していた。

 伊澤も相当の覚悟だった。会社の反対を危惧し、この出版を上司には相談しなかった。実際、営業の責任者は「こんなものは売れっこない」と、グラビアの原版を廃棄したという。

 かくして、「原爆被害の初公開」と表紙にうった「アサヒグラフ」8月6日号は発売された。

 店頭に並んだ直後から大きな反響を得て、すぐに増刷が決定。原版が捨てられていたため、作り直すのに2週間かかったという。初版はカラーだった表紙は、その後間に合わず、単色刷りに。さらに、日本ペンクラブは英訳を添えて多数の「アサヒグラフ」を海外に送り、広島では、雑誌の中に身よりの姿がないかと探す人たちがいたという。結局、この「アサヒグラフ」は紙不足の中で70万部を売った。(文中敬称略)

(AERA編集部・大川恵実、井上有紀子)

AERA 2025年8月11日-8月18日合併号より抜粋

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