
焼け跡からは死臭が漂い、爆心地近くのビルは天井が抜け、曲がりくねった鉄筋がむき出しになっていた。広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)に行くと、熱線で体や顔を焼かれた瀕死の人たちであふれている。彼らの声にならないうめき声に、宮武はカメラを持って立ちすくんだ。中には片手を包帯で吊り下げながら救護する医師もいた。
救護所近くの路上で、顔に包帯を巻いた娘とひどいやけどを負った母親を、父親が手押し車に乗せて歩いているところに出くわした。母親から「撮らんといて」と叫ばれたが、宮武はシャッターを切った。
燃えてがらんどうになった百貨店の「福屋」は臨時救護所となり、全身包帯を巻かれた兵士がぎっしりと収容されていた。亡くなった兵士たちは「福屋」の南側にある空き地に次々と運び込まれ、荼毘に付される。宮武が撮影をしていると、通りかかった憲兵に「あんまり悲惨な場面は撮るなよ」と言われた。12日まで広島に滞在した。
義兄家族を失っても
大阪に戻ってから宮武は1カ月ほど下痢が続き、髪の毛もいつもより多く抜け落ちたようだった。『ぐらふ記者』によれば、本社医局の診断では、白血球も赤血球も減っていたが、病状はいつの間にかなくなっていたという。
長崎の街には、原爆投下から2週間後に西部本社のカメラマンだった富重安雄が入った。街を歩き、崩れ落ちた浦上天主堂や焼けただれた遺体、治療を受ける子どもの姿などを写真におさめた。長崎市生まれの富重は、義兄の家族6人を原爆で失った。
8月下旬から9月には、「科学朝日」の取材で、東京本社出版局カメラマンの松本栄一が長崎と広島を撮影している。松本は編集部記者の半澤朔一郎と共に東京から汽車で4日かけて長崎に入った。たった一発の爆弾でここまでの状況になるのかと、原爆の威力がただごとでないと悟った。
おびただしいハエとたたかいながら、異様な臭気が漂う焼け跡の中を歩いた。吹き飛ばされた市電や、ガラスがすべて飛び、鉄枠が剥き出しになった三菱の兵器工場や、見る影を失った浦上天主堂などを撮影してまわった。激しい閃光によるものなのか、長崎要塞司令部の壁には、梯子と人の影が焼き付き、残っていた。