
広島と長崎に投下された原爆。その惨状は実はすぐに報道されなかった。戦後7年目に「原爆被害の初公開」として報道したのは朝日新聞社発行の「アサヒグラフ」。資料をひもとき、歴史をたどった。AERA 2025年8月11日-8月18日合併号より。
【写真】大やけどを負った妻と娘を手押し車に乗せて歩く男性 アサヒグラフが記録した原爆のむごたらしい被害
* * *
1952年7月、東京・有楽町にある朝日新聞社6階の出版局長室では、「アサヒグラフ」8月6日号の編集会議が行われていた。編集長の伊澤紀(ただす、後の劇作家・飯沢匡)以下12人の部員が、数百枚の写真を前に議論を交わす。「これらの写真を掲載するかどうか」で押し問答が続いていた。
写真には、7年前の1945年8月6日と9日、原爆が落とされた直後の広島と長崎がつぶさにおさめられていた。爆発の衝撃で建物は崩壊、爆風で木々はなぎ倒され燃えがらになっている。破壊され尽くした街で熱線を浴びた人々は全身にやけどを負い、皮膚が溶けたような状態で横たわっている。病院で治療を受ける痛々しい子どもたちに、風貌の分からない遺体もある。いずれも、目を覆いたくなるほどの惨状が刻まれている。
あまりにむごい写真を掲載すべきかどうか、部員の中からは反対意見も出た。だが伊澤の気持ちは変わらなかった。
「やりましょう! 八月六日号の全頁をあげて、このむごたらしさを余すところなく、世界の人人に見せてやりましょう」(『ぐらふ記者』から)
それまで日本では、原爆被害についてほとんど報じられていなかった。戦時中は日本軍による検閲で、戦後はGHQ(連合国軍総司令部)によるプレスコード(報道統制)で、原爆の報道は厳しく制限されたためだ。そのプレスコードが、日本と連合国が結んだサンフランシスコ講和条約の発効により52年4月に失効。この日を、伊澤は待っていた。
原爆投下直後の街へ
伊澤は、知り合いを通じて、朝日新聞のカメラマンが原爆投下直後の広島や長崎を撮影していたことを知り、秘密裡に写真を入手していた。それを見て「この『原爆被害』だけは、直接的に訴えかけなくては意味がない」。そう決意していた。
原爆投下直後の街へ向かった同僚たちの想いに応えようという気概もあったのかもしれない。
そのひとり、大阪写真部の宮武甫は当直明けだった45年8月6日、広島に大型の爆弾が落とされたことを聞く。8日には中部軍管区司令部の報道班員として、汽車で大阪駅を出発。9日夕方には広島に着き、翌朝、夏の暑さの中で撮影を始めた。