しかし数年が経過し、系列局からも全民放で大同団結すべきとの意見が出始めていた。「ゆく年―」側に人気タレントをすべて押さえられてしまっていたキャスティング事情も影響した。独自番組にこだわるべきだとのフジ編成局内の意見もあったが、ついに10月に入って参加表明、ここに史上空前の83局ネット番組が出現することになった。民放の全チャンネルが同一番組になるのは、70年の日本万国博閉会式の79局ネット中継以来、2度目だった。

 内容も豪華絢爛。国立代々木競技場第二体育館に3000人を集めて番組初の公開放送、題して「笑いぞめだョ!ゆく年くる年」とくれば、もちろん制作はTBS。ザ・ドリフターズを進行役に人気タレント総動員、F・シナトラやS・コネリーなど世界の著名人(ニクソン米国大統領のネクタイも!)が出品してのチャリティ・オークションと、これでもかの物量作戦。放送コードもゆるやかな頃ゆえ、山中温泉から芸者40人のヌードなどお色気シーンもあった。

 そして視聴率でついにNHKの36.7%を上回る39.8%を叩き出す。その後もNHKと民放は年越し視聴率でつばぜり合いを繰り広げた。

<不参加の局は、裏で何をやっていたのか?>

 先に述べたように、「ゆく年―」に民放5系列すべてが参加したのが71年、それまで不参加の局の年越し番組がどんなものだったのかは気になるところだろう。

 例えば、合流直前の67年の東京12チャンネルは単独企画で、その名も「日本調ゆく年くる年」。浅草と新橋の花柳界にカメラを持ち込み、しっぽりと“下町情緒とお色気”を生放送していた。またフジ系列は毎回その年の売れっ子タレントのワンマンショーなどを放送。68年は東京ぼん太、69年はコント55号が90分出ずっぱりで東京厚生年金会館ホールから中継、といった具合であった。

■ゆく先を模索する巨艦 そして……

 全民放テレビをネットする巨大な番組となった「ゆく年―」。マンネリと言われつつも、新たな展開に挑んだその後の姿を追ってみよう。

・75年(日テレ):この回のハイライトは、京都梅小路機関区で17台のSLが山本直純の指揮のもと、汽笛で蛍の光を演奏する幻想的なシーン。

・76年(TBS):司会は田宮二郎と山口百恵。VTRやフィルムは一切使わず、スタジオも使わず、すべて屋外からの生中継。世界で初めてDVE(デジタル画像処理)を番組に使用した画期的な放送でもあった。制作は居作昌果。

・77年(フジ)渥美清、夏目雅子、露木茂をMCに、パリの超音速機コンコルド、アブダビの油田、バンコクの王宮など世界6カ所から衛星中継。スタッフ1000人、制作費は8000万円に膨れ上がる。

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