・66年(NET):当時はワイドショーの黎明期。「モーニングショー」の木島則夫、「11PM」の小島正雄ら各局ワイドショーの顔が中継先に配置された。横浜氷川丸船上でのエレキギター合戦、鈴鹿サーキットを爆走する初乗り大会など、この回は徹底した若者向け企画で、当時は20代の団塊世代にターゲットを絞った。『平凡パンチ』や『週刊プレイボーイ』から流行が生まれていた頃だ。
番組企画書にも「一大ヤングページェント」「カメラワーク、照明なども、パンチのきいたリズム感あふれる転換で」との文言が躍る。
・67年(日テレ):新年が明治百年に当たるのにちなみ、これから百年後を予測するバラエティショー。未来のリビングルームには大きな壁かけテレビがあるだけ。ボタン一つで新聞が届き、買い物も瞬時に、カメラが人々を監視する世界。植木等が一人五役で演じるシニカルな笑いは、今のネット可視化社会の姿をズバリ的中させている。生放送のなかにあえてビデオを駆使、クロマキーで司会の坂本九と吉永小百合の顔を画面に合成、井深大・大宅壮一ら著名人の15秒寸言フィルムを世相映像とミックス、時報はヘリを出動させて銀座和光を空撮……と井原高忠の斬新な演出が冴えわたった。一分の隙もない緻密に構成された台本を生放送の時間制限内でどれだけ完璧にこなせるか、という井原の演出ポリシーは後の「巨泉・前武ゲバゲバ90分」を彷彿とさせる。
・74年(東京12チャンネル):初めて幹事になった東京12チャンネル(現テレビ東京)だが、後発局ゆえ制作ノウハウもスタジオ設備も乏しい。担当した若井田恒ディレクターによれば、当時世に2本しかない超広角レンズでローアングル撮影し、スタジオを数倍の広さに見せる離れ業をやってのけた。曰く「見栄をはるのも演出のうち」。同局はその後も、79年に市川崑を総監督に起用したり、84年に歌舞伎の市川猿之助に企画・演出・司会の三役すべてを任せたりと大胆な試みを繰り返した。
また、毎回の司会も名誉な役回りで、第1回の森繁久彌をはじめ、渥美清、仲代達矢など大物俳優が「これだけは別格」として引き受けた。池内淳子も司会は当番組で一度きりであった。
ただし、時計メーカーのセイコーが開始以来のスポンサーだけに、歴代の司会者の誰もがタイムキープの正確さに神経を尖らせたという。
■ついにオール民放体制でNHKに勝利
第2の転機となったのが、フジ系列の参加により民放5系列が揃った71年の第16回である。しかし、なぜそれまでフジは頑なに「ゆく年くる年」への参加を拒んできたのか? その理由は、フジテレビ開局時に遡る。フジの時報は放送開始以来、シチズン時計の提供だった。年越し番組のスポンサーもシチズンだったが、60年代後半に提供を降りた。されど、フジはすぐには競合のセイコーへセールスをかけなかった。フジ営業局の義理堅さを伝える話である。