このように「ゆく年―」が大型化する一方で、すでに80年代初頭には、在京民放テレビの年末年始番組数(映画を除く)は150本となり、各局とも独自番組に重心をかけ始める。リモコンの普及で視聴率が団子状態になり、0.1%を巡る熾烈な争いは大晦日にも押し寄せていた。2年にまたがる番組を独自に作れないため、かつては年の瀬の最大の見せ場であったはずの「ゆく年―」は、次第に編成の枷となってゆく。
だが、敵方NHKはますます警戒心を強め、視聴率分析や対抗策が局内で何度も論じられた。
82年の制作はフジ。3カ月後に開園する東京ディズニーランドのシンデレラ城から年越しカウントダウン、新年一発目のニュースをジャイアント馬場が読むという、いろいろな意味でビッグな企画だった。楽しくなければテレビじゃないを旗印に快進撃を続けていたフジらしい、おもちゃ箱をひっくり返したような構成で、視聴率25.1対23.9で再びNHKに勝利する。
また、87年には中継地点を巡って民放とNHKが激突した。ゆく年の象徴として廃止される青函連絡船、くる年に開通の瀬戸大橋の二つを両番組が狙った。どうも、民放の動きを知ったNHKが後追いしたらしい。結局NHKは連絡船でなく、青函トンネル内を中継した。瀬戸大橋は双方で放送したが、民放は3分1500発の花火で彩った。
<昭和と共に去りぬ>
幕切れはあっけなくやって来た。昭和天皇が崩御され、元号が平成に変わった89年の3月末、世間には唐突な番組終了の知らせだった。実は前年末の5社営業局長会で、次回幹事のテレビ東京から辞退したいとの発言があったのだ。開始当初の目的は、技術ノウハウの蓄積、制作費の軽減であったが、すでに各局とも充分な力をつけている。さらに幹事社は前回を上回ろうと頑張るため、制作費が上昇して1億円近くになり、毎回赤字になっていた。視聴率争いも激しくなるなか、同一内容の番組は時流に合わない。民放5社と電通は、番組の発展的解消を申し入れ、提供のセイコーも了承して33年の歴史にピリオドが打たれた。こうして、テレビ史に残る大型番組は、姿を消していったのである。
それから四半世紀。「ゆく年くる年」とは何だったのか。Televisionの語源は「遠くのものを見る」である。皆で同じものを見て、時間・空間・仲間を共有する──その3つの「間」をつなぐのが、本来は目に見えない「年が受け渡されていく」という概念を可視化したこの番組だった。
最後に、一社提供でずっと番組を支え続けたセイコーに影の功労賞を贈りたい。(文/阪南大学教授・大野茂)
1.「ゆく年くる年」調査は、東京ニュース通信社との共同プロジェクトとして行われました。
2.この研究は「放送文化基金」「高橋信三記念放送文化振興基金」からの助成ならびに日本民間放送連盟の協力を受けました。