勝負の世界では一寸先は闇とよく言われる。競馬の世界も同じだ。ましてや依頼があってはじめて乗れる騎手の立場は受け身でシビア。エージェントの力関係もあるが、評判やレッテルという「見えない敵」は容赦ない。

 勝てないから騎乗馬が集まらない。いい馬に乗れないから勝てなくなるという悪循環。こんなとき、少しでも援護射撃になればと思い、親しい調教師に言葉を掛けると「ミルコには頑張ってほしいんだけどね」と申し訳なさそうに返ってくるのが関の山。所詮、ロートル記者ができるのはその程度だった。

 そんなミルコはファンの間では日本人より日本人らしいと慕われている。実際に納豆や抹茶が大好きで、メールも達者。乗り物にも慣れており、京都はもちろん、大阪や芦屋、神戸方面にもJR新快速電車を使って移動する。

 いまや日本にすっかり溶け込んでいるミルコが短期免許で初来日したのは20歳になった1999年。すぐに信頼を勝ち取り、なくてはならない存在に。やがてクリストフ・ルメール騎手とともに2015年に外国人初のJRA騎手通年免許を取得し、日本を代表する騎手の1人として活躍してきた。しかし、日本に染まりすぎたことがスランプや低迷の原因ではないかとユニークな分析をする関係者もいる。

「昔のミルコは変幻自在で奇想天外。それでいて、戦略も確かだった。馬を動かすし、進路取りもうまかった。それがいつの間にか後方からの競馬が増え、ワンパターンの騎乗が目立つようになった。そんなことはないと思うんだけど、日本の競馬に慣れて研究心を忘れたんじゃないか。本人も迷っているんだろうけど、いまの競馬にマッチしていないように感じられる」

 言うまでもなく実績は抜群だ。ネオユニヴァースやドゥラメンテで皐月賞、日本ダービーの2冠達成するなど国内外合わせてGI級通算45勝。絵になるシーンも多く、11年には東日本大震災直後のドバイワールドカップをヴィクトワールピサで日本馬として初制覇し、日の丸をまとったミルコの姿は傷ついた日本人にどれだけの勇気や希望を与えたか。また12年の天覧競馬となった天皇賞・秋をエイシンフラッシュで勝った際の最敬礼は競馬史に残る名場面。その他にも喜びのあまり接戦で下した相手騎手のヘルメットを叩いたり、物議を醸した勝利後の飛行機ポーズなど、数々の話題を提供してくれた。

次のページ ミルコ復活のポイントは…