『格差の〝格〟ってなんですか?』(朝日新聞出版)で勅使河原真衣が指摘したように、「自己肯定感」には正反対で矛盾した二つの意味がある。一方で、特別な成果や証拠がなくても私が私であるだけでいい、という意味と、努力して他人と競い合った結果として自分を認められるという意味である。この二つの「自己肯定感」の矛盾を、大原鉄平は「家」を舞台に描き出す。『八月のセノーテ』は、ひとつの家で暮らし、生きていくための資格や権利をめぐる物語だ。私たちがそれぞれの家で暮らすことは、無条件で当たり前なのか? あるいは、努力して競争してようやくその家で暮らすことが許されるのか?

 大原鉄平の答えは、この二つのどちらでもない。もちろん、「この家で暮らすなら俺に服従しろ」という権威主義は肯定されない。しかし、大原にとって「家」は、当たり前にそこにあって、住人をすんなり受け入れるものでもない。現に、和久がタワマンを購入してすぐ、街全体が少しずつ沈んでいるという不穏な噂が広まる。バベルの塔がそうだったように、どんなに堅牢に見える家も、永遠にそこに立ち続けたりはしない。どんなに成功しても、和久の「自己肯定感」が土台から揺らいでいるように。

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