
セ・パ6球団までがドーム球場を持つなど、施設面でも発展・進化した現在のプロ野球に対し、昭和から平成初めにかけての球場では、今なら考えられないような珍事件・衝撃事件が起きている。
【写真】本拠地移転から25年以上、今でもファンに愛されている球場がこちら
試合の真っ最中に球場で煙草の火の不始末から火災が発生、死者4人、負傷者300人超の大惨事となったのが、1951年8月19日に中日スタジアムで行われた名古屋(現・中日)対巨人だ。
名古屋が3対1とリードして迎えた3回裏、初回に本塁打を放った西沢道夫が打席に入り、地元ファンが沸き返っているとき、ネット裏席上段から「火事だ!」の声が上がった。火は折からの強風にあおられて、あっという間に木造内野スタンドに燃え広がり、観客たちは悲鳴を上げて逃げまどった。
この一大事を前に、グラウンドの名古屋ナインが人命救助に全力を挙げる。天知俊一監督をはじめ、杉下茂、西沢らが内野席のネットをよじ登り、逃げ遅れたファンを背負ってグラウンドの安全地帯へと誘導した。
この日は名古屋対巨人の前に行われた広島対国鉄のときから、煙草の吸殻が新聞紙に燃え移り、11度にわたってバケツの水で消火していた。このため、観客たちも「またか」と注意がおろそかになりはじめていた矢先の出来事だった。
真夏の晴天で建物が乾燥していたうえに、スタンドの木組みも極度の高温に達し、引火しやすくなっていたなどの状況も重なった結果、選手更衣室、記者室、売店などを含む3棟約1300坪を全焼する惨事となった。
当然、試合はノーゲームとなり、名古屋はその後の本拠地試合を鳴海球場などで消化することになった。
もうひとつ、火事をめぐるエピソードを紹介する。59年7月2日に平和台球場で行われた西鉄対大毎の試合中に「(福岡)市内○○町の○○さん、今お宅が燃えていますから、至急お帰りください」というビックリ仰天の場内放送が流れた。出火場所は球場の近くで、約15分後に鎮火して大事に至らなかったのは、不幸中の幸いだった。