何が実際に起きたのかについて第三者が断定できることはない。ただ監督の言葉を聞き思い知るのは、この監督が若い佐野選手に向ける感情は、彼がしたことへの怒りではなく、深い同情だったということだ。プロサッカー選手として最も輝ける機会を自ら失った男への愛と同情だ。
フェミニズムはそれを「ヒムパシー」と名付けてきた。
加害者が男性で被害者が女性だった場合、被害者よりも「未来を奪われた」男性に同情を感じる心理のことで、彼(ヒム)+同情(シンパシー)の造語だ。森保監督の今回の発言は、かなり純度の高い典型的なヒムパシーと言えるだろう。
ヒムパシーはたいていの場合、良心的な判断として語られる。10年以上前に私と言い争った男性がキラキラした目で、「一度の失敗で人生を奪うべきではない」と私を諭したように、“彼ら”に女性への悪意はゼロなのだろう。ただただ被害女性の顔が見えない、というだけで。
とはいえ、今回の森保監督の発言には激しい批判がSNSを中心に巻き起こり、佐野選手の起用に抗議して招集の撤回を求めるネット署名なども始まっている。10年前、私はヒムパシーという言葉を知らなかった。それでも、今は“それ”に名前が付けられSNSなどでフツーに語られるほどには、この社会の歪みに挑む人々が声をあげているということなのだろう。家族愛とか正しい指導者のあり方とか、そういう“良きもの”が蓋をしてきたものの正体が、暴かれつつある。一筋の希望は、強い怒りから生まれることもあるのだ。
「ミスを犯した人を社会から葬り去らない」
私も心からそう思う。だけれど、それは、今じゃない。そこじゃない。それじゃない。そして、それは「ミス」と名付けるものではない。
今回、多くの人が抗議の声をあげている。その声に、日本サッカー協会は応答できるのだろうか。