
足利義澄による、金龍寺立てこもり事件をご存知だろうか。室町幕府のトップが立てこもったという事実は当時の世の中に大きな衝撃を与えたが、これは実権を握っていた細川政元に対する政治的要求だったという。本来トップである将軍が、なぜ、自らの要求を通すために立てこもらざるを得なかったのか。
室町末期に詳しい古野貢教授は、著書『オカルト武将・細川政元』の中で、将軍・義澄と政元とのパワーバランスについて言及している。
新刊「『オカルト武将・細川政元 ――室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)」から一部を抜粋して解説する。
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政元と義澄の間の隙間風もどんどん強くなります。烏帽子の問題をはじめとして、政元が信用できる存在か疑い始めた義澄は、自分自身で主体的に行動したいと思うようになっていったようです。そしてついに「自分の思い描くことを政元がやってくれないからついていけない」と、丹波国岩倉の金龍寺(妙善院)に籠ってしまいます。
この「籠る」という、立場のある人が普段いるところからいなくなってしまうアピールが政元に対する「あなたのことが不安です」という意思表示になり、加えていろいろと注文もつけることになりました。
では、義澄の行動に対して政元はどのように反応したのでしょうか。まずは見舞いなどと理由をつけて金龍寺を訪問した公家や家臣団などを「何をしているのか」と捕まえて処罰してしまいました。これは政元の心理からすれば当然で、「義澄は自分が擁立した神輿に過ぎないから、わざわざそんなところへ行ってご機嫌伺いをする必要はない」というわけです。もちろん義澄の反抗自体も気に入らなかったはずです。
一方で、当時の社会的な常識からすれば実権を誰が握っているかなどということとは別に、将軍にご機嫌伺いをするのは当然のことです。それが許せない政元の振る舞いの方が少々エキセントリックでわがままで独善的、という評価になってしまったのではないかと想像できます。
金龍寺に籠ってしまった義澄に対し、政元は幕府政所長官の伊勢貞宗とともに復帰を求めます。義澄は政元に対しては、対立している足利義材の上洛を防いで功績のあった武田元信の相伴衆への登用や、義材の異母弟である実相院義忠の殺害など5カ条を、伊勢貞宗には七カ条を求めました。政元もこれを受け入れています。
政元はここで義澄を解任や追放などの手段でその立場を脅かしたりはせず、あくまでも義澄周辺の人間を解任するなどの形を取りました。なにしろ政元は将軍解任をすでに自分で一度やったことで先例もあり、望めばできたはずですが、そうはしませんでした。この政元の反応を受けて、義澄としては自分の立場が安泰ということで一応は安心したことでしょう。
政元としては、辞めさせることは可能であったとしても、当然「では次は誰を将軍にするか?」という課題が出てきます。しかも、将軍空位となると九州にいる義材に復権してくる隙を与えかねません。政元と義澄は「義材を排除する」という点では一致しているため、義澄を追放するという選択肢が結局はなくなってしまいます。
義澄の要求によって義忠を殺害したことにより、義澄に代わる将軍候補を失うことになりました。その結果、政元は義澄を廃することができなくなり、しばらくは義澄と政治的に対立しつつも協力関係を維持し続けざるを得なくなりました。これはその後の政権の選択肢をかなり狭いものにしてしまったと評価せざるを得ません。
『オカルト武将・細川政元』では、政元が織田信長よりも先に実行した「延暦寺焼き討ち」、将軍追放のクーデターにおける日野富子との交渉などを詳述。教科書には載っていない、応仁の乱から信長上洛までの「空白の100年」を解説しています。
