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 室町末期の覇者・細川政元は、足利将軍を追放するなど戦国時代の引き金を引いたキーパーソンでありながら、「狐の妖術」など魔法習得の修行に没頭するなど、常識破りの価値観を持った武将だ。

 長年細川氏の研究をしている古野貢教授は、著書「オカルト武将・細川政元」の中で、「政元の拒否した烏帽子」についても言及している。

 新刊『オカルト武将・細川政元  ――室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)から、一部抜粋して解説する。

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 政元は慣習においても、当時の常識を打ち破った改革者でした。たとえば、政元は烏帽子(えぼし)を嫌って被らず、そのことを奇行扱いされました。

 ところが政元以降、烏帽子を被らない人が増えていくのです。有名な織田信長の肖像画を思い出してみてください。信長は烏帽子を被っていません。立場のある人物が、烏帽子を含め、冠を被ることがスタンダードではなくなっていくのは十六世紀頃と考えられますが、その口火を切ったのが政元だったと言っていいでしょう。

 烏帽子は男性が礼装時に必ず被る冠の一種で、平安時代や鎌倉時代、室町時代の肖像画などを見るとみんな被っています。代表例としては源頼朝肖像画とされるもの(近年は足利直義肖像とも)が、頭に黒い冠を被っています。被って当然だったわけです。

 どうしてかと言えば、当時は、「裸を見られるよりも頭上を見られるほうが恥ずかしい」という価値観があったからです。たとえば『平家物語』では、摂政藤原基房と平資盛(清盛の孫)が行き会った際、資盛の無礼をとがめた基房方に対し、平清盛が報復として行列を襲い、基房主従のかぶり物を取り、髻を切ったという話があります。冠や烏帽子などが奪われ、頭上をさらすことになった基房主従は大変な恥辱を被ったとされています。

 現代の私たちは他人に裸を見られるのが嫌ですね。当時の人々、特に男性からするとそれ以上に冠を被っていない頭を見られるのが嫌だったわけです。就寝時すら、烏帽子を被ったままの姿が『病草紙』などの絵巻物にも描かれています。

 ですから儀式の最中に烏帽子を被らないのは、素っ裸でいるようなものだったのでしょう。そのような「変わった」価値観を持った政元の振る舞いは、当初は「あいつは何者だ?立場のある人物としてふさわしくない」という目で見られていたでしょうが、だんだんと受け入れられるようになっていきました。そして信長の時代になると、それが普通になっていたのでしょう。

 政元の奇行について、「天魔」と表現した史料があります。

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