『後法興院政家記』という史料の明応三年(一四九四)、十二月二十一日の項に、後法興院政家(近衛政家)という当時の公家におけるトップ級の人が伝え聞いた話として、こんな事が書いてあります。

「伝聞、去夜武家元服儀俄延引、是細河可着烏帽子事迷惑難儀云々、被官人等種々雖令教訓遂以不承引間、諸役人等空退出云々、可為来廿七日云々、如今者又可有如何哉云々、併天魔所為歟、平生一向不着烏帽子云々、不可説々々々」(『後法興院政家記』明応三年十二月廿一日条)
 
「ある夜のこと、武家(ここでは将軍家のこと)の元服の儀式がいきなり延期になった。これは細川(政元)が烏帽子をつけることを迷惑だと嫌がったせいらしい。家臣たちはあれこれ言い聞かせたらしいがついに受け入れなかったため、さまざまな役人たちが退出してしまった。結局その儀式ができなくて、来たる二十七日にやるらしい」と。

 そしてこの情報を受けて、政家は「こんなことがあっていいのだろうか」と、そしてさらには「これは天魔の仕業であろうか」とも言っています。

 織田信長についてもそうなのですが、実は十六世紀頃の時代、社会の様子を記した史料のなかに、「魔王」や「天魔」といった一見日本語表現らしくない単語、西洋の聖書や神話に出てきそうな単語がしばしば出てきます。この時も政元は「天魔」と呼ばれ、批判対象になってしまっているわけです。

 政家は続けて「政元は普段からまったく烏帽子を被らないのか、それは不可説不可説(おかしな話だ)」と言っています。当時の常識からすれば政家の言っていることが正しく、しかも彼は保守的な朝廷の中心にいる人でしたから、いよいよ政元のことを「なんとおかしなやつだ」と思ったことでしょう。

《『オカルト武将・細川政元』では、政元が織田信長よりも先に実行した「延暦寺焼き討ち」、将軍追放のクーデターにおける日野富子との交渉など、応仁の乱以降の“激動の時代”を解説しています》

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