
ただ、せっかく高校へ受験しなくても済む中学校へ入ったのに、県立神戸高校を受けて進んだ。関学の雰囲気は好きだったが、何か物足りなさもあった。「他人の言う通りにするのではなく、自分で考えて決める」という『源流』が、流れ始める。
大学は同期生の多くが受ける京大を受けて落ち、浪人した。珍しく「自分で決める」の気持ちが薄かったときだ。半年近くして東大の入試問題をみたら、暗記力よりも論考する力が必要なようで、自分に向いていると思って東大向けの勉強へ変えた。「自分で決める」が、甦る。
75年4月に東大文科II類へ入学。ここで『源流』からの流れに、新しい水流が加わった。みんなが楽しくなる場をつくる役だ。東大駒場キャンパスで入った演劇研究会が、その水源となる。『源流Again』で西宮市と別の日、駒場キャンパスの稽古場の跡を訪ねた。校内食堂の空いたところに、パイプを組んで舞台をつくった。その後に国の予算が付いて「駒場小空間」という劇場になっている。
俳優をやるつもりはなく、出演は2度だけ。せりふはあったが、通行人程度の役でも「下手だな」と実感。1年生の秋から劇団に欠かせない資金繰りや会計、上演の運営や会場の確保など、裏方を受け持つ。演劇は照明や音楽、大道具と小道具など、多くの作業が一体となって進む。そんな、みんなが楽しめる場づくりは、すでに「マネジメント志向」だった。
住友生命へ79年4月に入社し、東京・西新宿の住友ビルにあった東京総局の契約奉仕課へ配属された。電話で解約を希望してくる保険契約者に「解約は損ですよ」などと説明する役を3カ月やって、保険料の給料天引きの手配をするグループへ移る。
初めての営業現場着任の日に緊張で陸橋上で足が震えた
89年1月、東京都町田市の町田支社の営業担当課長になる。『源流Again』で駒場キャンパスを訪ねた後、小田急線町田駅近くの支社があったビルも再訪した。
初めての営業現場で、実は初日に途中の陸橋の上で緊張から足が震えて、帰ろうかと思った。現地へ立つと、そんなことも蘇る。傘下の支部が20くらいあり、営業職員は合わせて約400人。年上ばかりで難しい面もあったが、1カ月で慣れた。保険契約の応援へいっていたら、支社長に「支部長を一度やってみろ」と言われ、研修で不在となった支部長の代理に出た。