(左)片山杜秀氏と(右)大澤真幸氏の対談が実現(写真/朝日新聞出版 写真映像部 和仁貢介)
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 2025年4月11日発売の『西洋近代の罪──自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか』(大澤真幸著)で通巻1000号を突破した朝日新書。
 通巻1000号を記念して、社会学者の大澤真幸氏と思想史研究者・音楽評論家で慶應義塾大学法学部教授の片山杜秀氏に、混沌とした世界の行方を占うキーとなる概念「ファシズム」について掘り下げてもらう特別対談。

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「持たざる国」日本が「没入」した精神主義のロジック

大澤 「物量でかなわなくても精神で勝てるんだ」という戦前の精神主義は、当時の日本人の心をとらえました。戦後の僕たちがくだらないと思うものが戦前の人々を強くとらえていたという現実について、きちんと考えなければいけないと思います。この謎が解けないと日本の戦前のファシズムが何だったかわからなくなるからです。

『未完のファシズム』では次のように論じられていて、とても説得力があります。日本は第一世界大戦でこれからの戦争は近代兵器が勝敗を分けるので、それを支える科学力や経済力が重要だということを十分に学習していた。しかし「持たざる国」の日本は、こうした合理的な物質主義的な観点からは、勝てるはずがない。それがゆえに、逆に精神主義を強調するようなものに反転していった。ただし実際には「持てる国」とは戦わない、戦うとしても何十年も先にするという半ば暗黙の含みをもっていたわけです。

 しかし「持たざる国」の日本は結局、戦中、玉砕や特攻をやりました。「戦陣訓」の中柴未純は、片山さんによると、こうした戦法に理屈をつけている。こんな命を省みない恐ろしい奴らと戦えるかよと、相手が戦意喪失するはずだ、と。しかし玉砕や特攻を行うには熱い心、つまりイデオロギー的な「没入」が必要です。それで中柴らによって、「全体」に比べれば「個」は重要ではない、全体を代表しているのは天皇であって、お前が死んでも天皇は生きているんだから大丈夫なんだ、という中途半端でナショナリズム的な倫理学的精神論が語られたわけですよね。

片山 当時の陸軍、とりわけ統制派の中に、内心では精神主義は馬鹿げている、日本は敗けると思っている人たちはいました。しかし、日本の現状においてはこう言うしかないと、表向きには本当に思っていることと違うことを言う。それが一人歩きしていきます。海軍でも政治学や経済学や哲学の領域でも、同じようなことが起こっていました。

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