神近市子を知らない方のために。

 1888年生まれ。元祖お騒がせ女集団「青鞜社」(大正時代を生きた若い女性たちが立ち上げたフェミニズム雑誌社です)に関わり、その後、毎日新聞社の前身「東京日日新聞社」で記者として活躍するも、社会主義者でアナーキストの大杉栄との恋愛が発覚し退職に追い込まれる。

 大杉栄は既婚者だったが、“フリーラブ”を提唱し、独立した自由な男女関係を謳い、10歳年下の伊藤野枝との深い関係も公にし、同棲をはじめた。神近は大杉への恋愛感情に引き裂かれながらも、定収入のない大杉と伊藤の生活費を支えた。そして事件は起きる。1916年、精神的に追いつめられた神近は、大杉と伊藤が宿泊する宿を訪れ、大杉を刺したのだ。いわゆる「葉山日蔭茶屋事件」である。当時のメディアは一斉に「嫉妬に狂った情婦」としてこの事件を取り上げ、神近の名は一躍全国に知れ渡ることになる。その後、大杉と伊藤は内縁関係を結んだが、1923年に関東大震災の混乱に乗じた憲兵により二人は虐殺された。そのことによって、二人の名は歴史に刻まれ、そして神近の名もまた「大杉を刺傷した女」として生涯語られ続けることになった。

 神近が強いのは、出所後も物書きとして発信し続け、女性運動家としての活動をやめなかったことだ。しかも1953年の衆議院議員選挙に出馬し、65歳の年に初当選するのである。議員としては売春防止法の制定に尽力し、衆議院議員を5期務めた。1981年没、93歳の生涯だった。

 すごい人生である。そしてかつての日本の“おおらかさ”というものにも驚嘆する思いになる。刺傷事件を起こして服役した女性が国会議員になれた時代が、この国にはあったのだ。日本全国から嘲笑され、侮蔑されながらも、誇り高く生き、女性のために闘い、発言することを諦めずに生き抜いた神近、そしてそういう女性に「同情的」であろうとした優しさと緩やかさが、かつての日本にはあったということなのだ。

 もう随分前だが、瀬戸内寂聴さんにお目にかかった時(寂聴さんは神近市子について書いている)、実際に会った神近市子はどんな人だったか質問をしたことがある。寂聴さんは、「口紅をしっかりひく、きれいな女性だった」と仰っていた。「野枝のことはなんて言ってましたか?」と聞くと、「『臭かった』と言っていた」と笑っていらした。神近は伊藤野枝を許していなかったのだな、と思った。そういう人間臭さも含めて、そして神近が恋敵の野枝ではなく大杉を刺したことも含めて、私は神近市子が日本のフェミニストの中ではダントツ好きだ。規格外のお騒がせ女、だけれど諦めず、自らの運命を誇り高く生き抜いたまっすぐな背筋に、問答無用に憧れる。

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