
哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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世界が帝国に分割された時、日本はどう生き延びるのかという話の続き。
これまでの国際政治は地球を「一つの村」に見立てていた。193の国連加盟国が「村人」、国連が「村議会」、国連軍が「村の警察」というモデルである。近代市民社会を世界規模に拡大したのである。人間の想像力には限界がある。自分が知る身近な政治のサイズを拡大することでしか国際政治を構想できなかったのである。
1945年時点では「次の戦争」は核戦争になり、その時人類は破滅するという未来予測はリアルなものだった。国民国家同士がそれぞれの国益の最大化のために戦えばそれは「万国の万国に対する戦い」になる。力のある国は力のない国を支配し収奪し滅ぼすこともできる。「力の支配」をめざす国が核兵器を用いれば人類は滅亡する。その恐怖を今の若い人はもう想像することができないだろう。
私たちの子どもの頃、1950年代初めから後半にかけて「世界終末時計」はずっと11時58分(世界の終わりまで残り2分)を指していた。原水爆実験を米ソ英仏が繰り返し、子どもたちは「放射能の雨」にさらされて学校に通っていた(雨に当たると毛が抜けるという都市伝説を子どもたちは半ば信じていた)。「世界はもうすぐ終わる」ことは言挙げされないまでも自明のことと思われた。
その時「法の支配」に基づいて世界に秩序をもたらす道筋としては「村議会」が「村人」同士のいさかいについて理非を明らかにし、非のある「村人」を「村の警察」が黙らせるというモデル以外のものを人々は思いつかなかった。日本国憲法9条2項はそのような「村」の一村人が「私は貧しいけれども道義的な生き方をめざす」と宣言したものだった。残念ながら国際政治は予想通りには推移しなかった。世界は80年後に再び「力の支配」を原理とする前近代に退行し始めたからである。
日本はこれからどうしたらよいのか。どこかの帝国の属国として宗主国に頤使(いし)され収奪される身分に甘んじるのか、それとも単立の「国民国家」として生き延びる道を探すのか。
今回もまた紙数が尽きたので、続きは次回。
※AERA 2025年4月14日号