一緒に留学した妻は「最初は私のほうが上のクラスにいたのに、どんどん伸びて抜かされた。必死さが違ったし、勉強量がすごかった」。家庭でも社会課題についてよく話し合う(写真:上田泰世)

 渡邊は実家を離れて日本福祉大(愛知)へ進学。福祉に関心があったわけではなく、学力に合うところを選んだだけだったものの、授業を受ける中で「いつか海外でソーシャルワークを学びたい」という気持ちが芽生えた。しかし大学から始めたアメリカンフットボールに熱中し、「今しかできないことをしよう」とアメフトの実業団を持つ電気設備メーカーに就職。5年ほどすると福祉関係の物品を売る営業職に転職した。その間に大学の後輩だった妻(51)と結婚介護職に就いた妻には「いつかアルツハイマー専門のケアを学びに留学したい」という夢があった。妻に引っ張られるようにして2002年、会社を辞めて2人でオーストラリアへ渡った。

 当時31歳。大学院進学を目標にしたものの、英語力は「This is a penのレベル」。語学学校では6段階のうち一番下のクラスになり、買い物や物件の交渉は中級クラスに入った妻がしてくれた。どうしたら大学院というゴールにたどりつけるのかがまったく分からず、後悔や不安に苛まれて時々日本の転職サイトをのぞいた。

 そんなある日、学校に残って勉強していると教師から留学の目的を尋ねられた。このレベルで大学院に行きたいなんて恥ずかしくて口にできない。なんとか「大学に行けたらいいなと思っている」と伝えた。日本の感覚では「無理だ」と言われると思っていた。でもその教師は真剣な顔で「このクラスから大学に行った子はいないけど、幸運を」と言ってくれた。背中を押され、渡豪から10カ月後にモナッシュ大学大学院へ進学した。専攻は児童福祉。文献を読みあさったところ、「日本の高齢者福祉や障害者福祉の水準はそんなに低くない。圧倒的に遅れているのが児童福祉だ」と感じたからだ。1年半後に修士号を取得。最先端の知見を得て「薔薇(ばら)色の人生」を期待して帰国した。だが、なかなか仕事が見つからない。妻がフルタイムの仕事に就いたのを横目に、児童福祉関連機関の嘱託職員やNPOでのアルバイトを掛け持ちする日々だった。

 この頃、仕事以上に頭を悩ませたのが母のことだった。3歳の頃から養育していたユウタ(仮名)が荒れ始め、高校生の頃には「1分1秒でも早く、この家から出ていきたい」と言うようになったのだ。母は病気が発覚したにもかかわらず「私の命に代えてでもこの子を育てる」と譲らなかった。

 渡邊はみよの様子を見て「養育にエネルギーを注ぐことは難しいだろう」と感じた。「なべちゃん(渡邊)が里親になったらいいやん」という妻の助言を受け、児童相談所にも相談して、渡邊が里親となってユウタを引き取ることにした。 

「母は『この子を離さない』と言っていたから、私は人さらい扱い。顔も見ず、口もきいてくれなかった」

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