
ずっと持ち続けた「先生になりたい」という思い
アジア大会や四大陸選手権では活躍した中野さんだが、高校最後の03-04シーズンは新採点方式に変わったこともあり、練習しても結果がついてこなかった。自身でも伸び悩みを感じていたことから、思い切って生まれ育った愛知県を離れ関東へ出た。そして、早稲田大学のeスクールに入学するとともに、佐藤信夫コーチに師事することになった。
「佐藤先生に本格的に習う前に、『私はスケートの才能がないと思うんですが、まだまだ努力して、練習して自分の限界を超えていきたいんです』と言ったら、『トリプルアクセルを跳べる人間が才能がないって言っちゃだめよ』『練習をすることも才能なんだよ』と言ってくださって。それがすごくうれしくて、まだ自分の力を伸ばしていけるかもしれないと感じました」
とはいえ、佐藤コーチからの要求は厳しかった。朝6時からレッスンが始まり、春夏はみっちりと練習漬けの日々を送った。そんなしんどい練習を乗り越えて、05-06シーズンのスケートカナダでは3位、NHK杯では優勝を飾り、初出場となったGPファイナルでも3位に。全日本選手権では5位となりトリノオリンピック出場はかなわなかったが、四大陸選手権では銀メダルを獲得、世界選手権では5位に入った。

競技力を伸ばし、実績も積み上げていく中、大学の勉強も怠らなかった。スケートを続けながら、小さい頃は「先生になりたい」という思いも持ち続けていた中野さんは、必死に競技との両立を目指した。
「大学は4年でなんとか卒業しようと思っていました。eスクールなら在宅で勉強しながら、当時は教職の単位が取れたんです。教職を取るために日々スケートと勉強の両立を頑張っていたという感じですね」
本当は大学卒業のタイミングで競技をやめようとも考えていたが、その時期は大会でも結果を出せていた。2年後にはバンクーバーオリンピックも開催される。まだもっと上を目指せるかも……。そんな気持ちを抱き、大学院に進学しつつ、スケートを続けることにした。
「実際に入ってみたら、論文を出すための研究を2年間ずっと続けなければいけなくて、大学時代よりはるかに大変でした。今思うと、それがオリンピックに行けなかった原因の一つかもしれません。……両方取りに行こうとした自分が良くなかったかもしれないです」