そんな紆余曲折を経て、82年シーズン中に支配下登録。83年7月9日の近鉄戦では、小川亨の右前への飛球を前進キャッチし、自慢の強肩で右ゴロ併殺の珍プレーを披露したが、1軍に定着できないまま、高ともども同年限りで日本を去った。

 89年、先輩・郭源治のあとを追うようにして、中日に第3の外国人として入団したのが、陳義信(登録名・義信)だ。

 84年のロス五輪では郭泰源に次ぐ2番手、88年のソウル五輪ではエースとして常時145キロの速球を投げ、“第2のオリエント・エクスプレス”と呼ばれた。

 中日には郭とジョージがいたため、当初はファームでじっくり育てる予定だった。だが、2軍の沖縄キャンプで好投すると、豪州キャンプ中に「義信は使える」の報告を受けた星野仙一監督が沖縄の2次キャンプにも残留させ、即戦力の期待をかけた。その後、4月末にジョージの故障離脱によって1軍昇格。リリーフ登板した5月21日のヤクルト戦で来日初勝利を挙げた。

 同年は登板16試合で3勝1敗を記録も、防御率5.29と安定感に欠け、翌90年も0勝0敗、防御率8.59と活躍できなかったことから戦力外に。

 帰国後は台湾プロ野球・兄弟のエースとして最多勝に2度輝くなど、通算92勝10セーブを記録している。

 ソウル五輪で義信とともにエース格だった郭建成も89年にヤクルトに入団。前年の世界選手権の前に米国遠征で150キロをマークし、メッツから誘われたが、ヤクルトの台湾支社の重役が松園尚巳オーナーの親戚にあたり、4年前からラブコールを送っていたことから、ヤクルト入りが決まる。

 来日2年目の90年、メジャー通算133勝左腕・バニスター退団後の7月18日の阪神戦で初先発したが、3回5失点KOされ、同年は0勝4敗に終わる。自慢の速球も日本では通用せず、1軍登板なしで終わった翌91年限りで自由契約になった。

 その後、台湾プロ野球・時報のリリーフエースとして、94、95年に2年連続最多セーブを記録した。

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