南海でプレーした高英傑
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 1980、90年代は郭源治(中日)、郭泰源(西武)、荘勝雄(ロッテ)、郭李建夫(阪神)ら台湾出身助っ人の活躍が目立った。その一方で、彼らに続くことを期待されながら、飛躍できずに終わった選手も存在する。

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 左腕からの150キロの速球を売りに、小松辰雄(中日)、村田兆治(ロッテ)とともに“球界の速球王”と並び称されながら、日本では通算5勝に終わったのが、三宅(李)宗源だ。

 1976年に台湾が韓国と親善試合を行った際に、視察したロッテ・三宅宅三スカウトの目に留まったのがきっかけで、79年に第3の外国人として来日。リー、レオンの兄弟が不動のレギュラーとあって、当初は練習生だったが、三宅スカウトが養子に迎えて帰化申請した結果、81年7月に支配下登録をかち取った。

 だが、キャンプ中に川上哲治氏が「これはすごい投手だ。こんな左投手はほかにいない」と絶賛するなど、「シーズン15勝はいける」と期待された大物も、奪三振数より与四球数が多いという制球難を克服できず、82年に4勝(11敗)を挙げたのが最高成績。84年に巨人・王貞治監督が熱望し、山本功児との交換トレードで移籍も、2年間1軍登板の機会がないまま、85年オフに退団、引退となった。

 前出の三宅に続いて来日したのが、80年に練習生として南海入りした高英傑、李来発のバッテリーだ。南海もメイ、王天上(オーテンジオ)の2人が1軍にいたため、なかなか出場機会がなかった。

 同年7月、打撃不振の王天上が退団、帰国すると、左腕不足のチーム事情から高が1軍昇格。リリーフ登板した8月13日の近鉄戦で来日初白星を手にし、チームの左腕の5勝のうち3勝(1敗)を稼いだ。

 だが、翌81年シーズン中に肩を痛めると、台湾時代に“王貞治2世”と呼ばれた打力を生かして外野手に転向。6月28日の阪急戦でプロ初本塁打も記録した。

 一方、台湾ナンバーワン捕手・李は、75年にレッズから「ジョニー・ベンチの後釜に」と誘われたが、兵役のため断念。南海入団後も外国人枠の割りを食う形で、一時は球団職員(練習生)扱いの不遇に泣いた。

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