ジャズ、ヒップホップ、ロック、好きな音楽を聴きながら絵を描く。筆ではなく、スプーンと刷毛を使うことで独特の線やタッチが生まれる。創作の気分転換には愛車ポルシェで湘南まで海を見に行く(写真/小山幸佑)

 この「ボタンフラワー」は観る人を魅了していく。アートの世界にとどまらず、ポルシェ、クリスチャン ルブタンなどとのコラボレーションも手がけ、創作の場は広がっていった。

 須藤がNYでアーティストとしてデビューを果たしたのは37歳の時。だが、幼少期には「歌舞伎の子役」をしていた異色の経歴を持つ。

 両親は共に教師で、2歳上の兄、祖父母と東京・自由が丘で暮らしていた。芸事とは縁もない家庭に育つが、保育園の頃、祖母の勧めで児童劇団に入ったことに始まる。母のあい子はこう顧みる。

「おばあちゃんは芝居が大好きで『私が全部連れて行くから』と言われたんです。俊はまだ小さかったから、『うん、やる!』と。劇団ではいろいろオーディションを受けますが、歌舞伎の子役担当の先生が俊の顔を見て『歌舞伎やらない? かつらが絶対合うわよ』と勧められました。すごく気に入られて直接オファーが来るようになり、有名な役者さんとも共演させていただきました」

 須藤は舞台度胸があり、歌舞伎座で花道を歩いたり、地方巡業に参加したり、子役として活躍する。だが、小学校高学年になると早退するのが嫌で「やめたい」と言う。歌舞伎の世界は世襲制なので役者の道が拓けないことも悟っていたのだ。

 その頃、家でいちばん夢中になっていたのが絵を描くことだった。宿題をしているかと思えば、ノートに漫画の絵ばかり描いている。図工の教師にはよく絵を褒められていたと、母は懐かしむ。

 中学時代はアメリカのポップカルチャーに影響を受けた。スケートボードにハマり、アメリカ製のボードのデザインが好きでまねして描いていた。当時はNBAでマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズがリーグを席巻し、バスケットにも熱中する。プロを志す仲間もいたが、「僕には無理だ」と夢を描けない。それでも「根拠のない自信みたいなものがあったんです。何かしら絵を描いて生きていくんだろうなと……」と須藤は苦笑する。

 美大進学も考えたが、勉強が好きではなくて断念。海外へ出たいと思い、オーストラリアのゴールドコーストへ1年間語学留学した。英会話はなかなか上達しなかったが、クラスメートの誕生日に絵を描いて贈ると喜ばれ、サーフボードの絵をプレゼントした子はサーフィンを教えてくれた。

 帰国後はアルバイトで旅費を貯めると、憧れのアメリカへ。ロサンゼルスから鉄道を乗り継いで全米を回るバックパッカーの旅。列車のダイヤは当てにならず、7時間遅れでシアトルに着いたのは深夜3時、ユースホステルまで一人で歩くのはめちゃくちゃ怖かった。ロスではダウンタウンの廃虚へ迷い込み、ダッシュで逃げたことも。

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独立して世界へ挑戦 「NYで個展を開きたい」