歌舞伎の子役時代、祖母と一緒に歌舞伎座へ通い、角の雑貨屋でスマーフ人形を買ってもらうのが楽しみだったと懐かしむ。歌舞伎独特の着物や舞台美術などデフォルメされた絵に影響を受けたという(写真/小山幸佑)

 3カ月の観光ビザで気ままに旅し、その後は日本とアメリカを行き来する。ニューヨークへ行くと、街の空気がしっくり肌になじんだという。

「開放感がありましたね。人目を気にせず自由でいられるし、肩書も関係なくフランクに話せる。NYの人たちは不便なことや危険も多いからたえず闘っているようだった。すごく刺激になったし、自分らしく生きている実感がありました」

 10代後半から20代にかけて、パン屋やスポーツジムでバイトをしては海外へ遊びに行く日々を過ごす。「自分の行く先は何も考えていなかった」という須藤を、弟のように案じていたのがバイト先のスポーツジムで出会った木崎典子だ。

独立して世界へ挑戦 「NYで個展を開きたい」

 インストラクターの木崎は面倒見がよく、バイトに来る若者たちを誘って食事をしたり、一緒に遊びに行ったり、親しく交流していた。後輩たちには「姉さん」と慕われ、須藤もその一人だった。

「人なつこくて子犬みたいな感じ。付き合いが良く、何を言われても『えっ、マジっすか』と嫌な顔せず受けとめる。ぱっと見にはやんちゃな感じだったけれど、本当に素直で穏やかなんです」

 木崎は美味しい店へ連れて行くと注文の仕方や食事のマナーを教えたり、ゆるカジばかりの格好を気遣って「一緒に服を買いに行こう」と誘い、上質なパンツをプレゼントしたり。いずれ世の中へ出た時に役立つようにアドバイスしていた。

 そんな「姉さん」が結婚する時、須藤は一枚の絵を贈る。夫妻に好きなものを聞き、そのすべてをちりばめた美しいペン画。夫の木崎賢治は音楽プロデューサーとして多彩なアーティストを世に送り出してきた人で、須藤の絵に才能を感じ、「ちゃんと仕事にした方がいい」と夫婦で話していた。

20代の頃からNBAの熱烈なファンの須藤は、NEW ERA、NBAとのトリプルコラボレーションキャップを手がけ、忘れられない試合、度肝を抜かれたプレーなど6チームを選んでデザインした(写真/小山幸佑)

「私たちは親みたいに何でも言えたので、『一回、就職した方がいいよ』と勧めたんです。一般の人たちがどんな風に仕事をして、世の中がどう回っているのか、勉強して損はないからと」(木崎)

 2人のアドバイスを受け、20代半ばの頃、広告やパッケージ、ウェブのデザインを手がける会社へ就職。毎日のように終電間際まで働きながら、グラフィックデザインをみっちり教え込まれた。

 須藤は仕事で様々なイラストを手がけるうち、イラストレーターとして独立したいと考えた。その背中を押したのが兄の仁(49)だ。当時、クリエイターのマネジメント会社に勤めていた仁は、弟の絵を見て実力を認め、自分も後押ししようと思い立つ。2012年、須藤は兄とデザイン会社を設立し、イラストレーターとして歩み始めた。

(文中敬称略)(文・歌代幸子)

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