すでに在る、有る
人の存在は、私たちが白々しく「ダイバーシティ&インクルージョン」なんて言い出すはるか前から、すでに多様で、なんぴとも、そこに佇むこと(生まれてきたこと)に理由はない。
あたかも正当な理由があって、存在を選別しているかの考えが、問題だと言っているのだ。
だからしつこいようだが、私たちが心の面積を拡げればいい、とかそういうことではなく、「誰かが許可を出して、認められればそこに居ていいなんて、冗談じゃないよね?」と言うことこそ、今待ったなしで求められている。
現状をなんとかしたいお気持ちはとてもよく伝わってくるのだが、このことば選びは、見過ごせないポイントだ。「赦す」ということばが、選別の軸になった途端、同じ穴の狢(むじな)だと、メディアに携わる人ならなおのこと、頭の片隅に置いておかねばならない。
誰かが誰かを正当に「赦してあげている」なんて、思い違いもたいがいにしたい。神じゃあるまいし。
何かを求めるときは、何がそれを阻害しているのか? からまず考えるべきだろう。赦しだか、広い心だかに求めるのは、目をつむれ、ということではないか? おちおち黙っていられないのは、そもそもなぜなのか?
考えるべきはそこだろう。私は、赦しなんて響きに騙されないでいたい。目を、口を開くことで、すべての人と生き合っていこうとしている。

