百歩譲って、これからの時代の〇〇、という言い方が人々の耳目を集めるにあたってはやむを得ないところがあるのだとしよう。だとしても、「赦す」ことが「よりよい社会」を作るとは毛頭思わない。

 そうこうしながら、みるみる曇る私の顔を見てか、インタビュアーがこう慌てて重ねてきた。

「『赦す』というか、『寛容』であること。これがこれからますます重要になる、と言いますか……」

 うーん。それもすみませんが、違うと思う。

「赦す」も「寛容」も私からすると、余計なお世話的キーワードだと感じる。ここではそう考える背景を記していく。神じゃあるまいし「赦す」と訊くと、私はまずもって、神の存在を思い浮かべる。

「父よ、彼らをお赦しください」――といったものである。

 キリスト教を信じる・信じないにかかわらず、「赦す」というのは、ある種、神的なものだと考える。神的とは、信仰心うんぬんではなく、〝私たちと並列な存在ではない〟と言い換えて、ここでは考えたい。

「赦す」ということばからもう一つ思うのは、恩赦ということばだ。

 人生ではじめてこのことばをきちんと調べてみたのだが、「行政権によって、国家刑罰権を消滅させ、裁判の内容を変更させ、又は裁判の効力を変更若しくは消滅させる行為」とある。

 宗教的に神に限らず、権威階層で考えてもいいということだろう。「恩赦」を決めるのは、並列ではない存在だ。つまり、「赦す」とは一般的に、一段上の者の営みなのだ。「赦しを乞う」などという表現からもわかるとおり、「赦してもらう」側は、下位ということになる。

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存在することに、誰の許可も要らない