勅使川原真衣『格差の"格"ってなんですか? 無自覚な能力主義と特権性』(朝日新聞出版)
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 そういう前提を踏まえると、「これからの時代は『赦し』ですよね?」と言われると……戸惑う気持ちを、おわかりいただけるだろうか。

 社会に暗黙に漂う階層構造、権力勾配を注意深く観察する者としては、序列ありきの人間観の中で、何かを他者に一方的に要請することから、自由になりたいのだ。

 私たちは言うまでもなく神ではないし、国家権力者でもない。おおよそ多くの人にとって、「赦す」も「赦さない」もないのが、日常である。そもそも論で言えば、相手があって、状況があってのことだから、いち個人の能動的な営為として「はい、赦そうじゃないか」とか「一生赦さん」と語り切るには、圧倒的な立場の差が必然的に求められるのだ。

 立場の差ありきの「赦し」。これが「よりよい社会」のカギを握……ることはあるまい。

 さて、大前提として、「赦す」「赦さない」なんてことを決める立場にない、という発想があるとして、先のインタビューに戻ろう。これからの時代に求められるのは「赦す」ということなのか。考え込み、言い淀む私にインタビュアーはさらにこう続けた。

「あらゆる組織課題は、いち個人の中で起きているのではなく、人と人との関係性のなかで起きていると、勅使川原さんのご著書にありました。それを現実的に受け入れて、実装するには、『能力』という括くくりで人をジャッジしないことが肝要だともありました。それをいざ実践するにはやはり、広い心というか……」

 うーん、あぁ~いや~すみません、それもやっぱり違うと思う。

 赦すも何も、ないのです。

 そこにすでに存在しているのだから。あなたもあの人も私も。

 誰かに許可されたからいるなんて、滅相もない。

 存在することに、誰の許可も要らない。

 ゆえに昨今、問題があるとすると、まさにその点なのだ。赦しだか、寛容性だか、広い心がないからこの社会が生きづらいのではなくて、誰かが許可した人しか生きてはいけないかの窮屈さがしんどいのではないか。

 ここに居ていい人、ダメな人

 ここで発言していい人、ダメな人

 が選定、選別されていることそのものが、根本的な問題なのだ。

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赦しに騙されないで