輪島市白米町の棚田「白米千枚田」で、佳織さん夫妻は友人たちと1年間米作りに取り組んだ。翔太さんは海が大好きだったという=23年9月、佳織さん提供
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「AERA dot.」に最近掲載された記事のなかで、特に読まれたものを「見逃し配信」としてお届けします(この記事は1月1日に「AERA dot.」に掲載されたものの再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。

【写真】幸せいっぱい 佳織さん夫妻の「最後の夫婦写真」

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 昨年1月1日、能登半島は地震による壊滅的な被害に見舞われた。記者は発災直後の3日、避難所となっていた石川県・輪島市役所で、夫を亡くしたばかりの一人の女性に出会った。女性は、記者を倒壊した自宅に連れて行き、夫の最期や生前の思い出について涙ながらに語った。【がれきの下に消えた夫との夢 輪島塗の作品を置ける交流の場を…「ここに翔ちゃんが埋まってたんです」】 そんな彼女が、1年ぶりに再会した記者に語ったのは、「天国の夫からラブレターが届いた」という小さな奇跡だった。

 末藤佳織さん(40)と夫の翔太さん(当時40)は、結婚6年目の2022年、「輪島塗を勉強したい」という佳織さんの願いをかなえるため、実家のある本県から輪島市に移り住んだ。

 佳織さんは県立輪島漆芸技術研修所で漆塗りを学び、翔太さんは地域おこし協力隊として県立輪島高校で教育支援。地域の人々にあたたかく迎えられ、新天地に根を下ろしはじめたころだった。

 24年の元日、翔太さんは地震で倒壊した自宅の下敷きになり、命を落とした。

 佳織さんは翔太さんの遺骨とともに、熊本の実家に身を寄せた。空っぽの心で、翔太さんの死に伴う膨大な事務手続きを淡々とこなした。

 そんな中、輪島の研修所から「卒業制作を完成させませんか?」と電話があった。研修所は被災したが、金沢美術工芸大学が施設を提供してくれるという知らせに、佳織さんは「やります」と即答した。

「翔ちゃんとは、自分を信じて、できることに一つずつ取り組む生き方をしてきたから」

 翔太さんの四十九日が終わるとすぐに金沢市に向かい、大学の宿舎やホテルに泊まりながら作品と向き合う日々が始まった。

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死んでしまった心のリハビリ