『BLONDE ON BLONDE』BOB DYLAN
『BLONDE ON BLONDE』BOB DYLAN
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 今からちょうど半世紀前の1966年。いわゆる《ロックンロールの誕生》から約10年ということになるこの年、ロックは、明確な形で変化を遂げ、その表現領域を大きく広げている。

 ビーチ・ボーイズ(ブライアン・ウィルソン)が『ペット・サウンズ』で打ち出した革新的な録音手法とサウンドは、ビートルズをも衝き動かし、完成間近だった『リヴォルヴァー』に少なからず影響を与えた。この年の秋、彼らはスタジオでの創作活動に専念することを決め、それが翌年の『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』へとつながっていく。ローリング・ストーンズは、はじめてジャガー/リチャーズのオリジナル曲だけで固めたアルバム『アフターマス』を発表。ロンドンではクリーム、ロサンゼルスではバッファロー・スプリングフィールドが誕生し、サンフランシスコではグレイトフル・デッドとジェファーソン・エアプレインが最初のレコードを発表している。ジミ・ヘンドリックスがイギリスに渡り、《ヘイ・ジョー》を録音したのも、1966年のことだ。

 前年、『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』と『追憶のハイウェイ61』、さらにはニューポート・フォーク・フェスティヴァルでのライヴ、ザ・バーズ版《ミスター・タンブリン・マン》の大ヒットなどにより、多くの人たちが新しい波の中心的存在と受け止めるようになっていたボブ・ディランは、この年の春、『ブロンド・オブ・ブロンド』を発表している。ポピュラー音楽の世界では過去に例のない、きわめて画期的なものであったに違いない2枚組の大作だ。

 65年夏に『追憶のハイウェイ61』を発表したあと、ディランは、ジョン・ハモンドの息子でブルース・シンガーとしても活動していたジョン・ハモンドJr.らから推薦されたほぼ同世代の、5人編成のバンドとツアーに出ている。ザ・ホウクス、のちのザ・バンドだ。彼らとの出会いや関係については次回あらためて詳しく書くが、旅をつづけながら学び、腕を磨いてきた5人とのライヴからディランは大きな手応えをつかんだようで、同年秋から年明けにかけ、何度かニューヨークのスタジオでのレコーディングにトライしている。

 しかし、なかなかいい成果を得ることができず、ボブ・ジョンストン(プロデューサー)の勧めもあって、録音場所をナッシュビルに変更。ホウクスのギタリスト、ロビー・ロバートソンとアル・クーパーだけを連れて、アメリカ南部の《カントリー・ミュージックの聖地》に向かったのだった。

 カントリー=保守というイメージは現在とは比較にならないほど強かったはずであり、マネージメント・サイドからの反対もあったそうだが、ナッシュビルのスタジオ・ミュージシャンたちとのセッションは順調に進んでいく。ニューヨークで仕上げていた曲の再録音も行ない、3月には完成。「2枚組で」という決断は、そこで残された大量の音にディランが心から納得、満足していたことを示すものでもあった。

 《レイニー・デイ・ウーマン#12 & 35》《ヴイジョンズ・オブ・ジョアンナ》《スーナー・オア・レイター》《アイ・ウォント・ユー》《スタック・インサイド・モービル・ウィズ・ザ・メンフィス・ブルーズ・アゲイン》《ジャスト・ライク・ア・ウーマン》《モースト・ライクリー・ユー・ゴー・ユア・ウェイ(アンド・アイル・ゴー・マイン)》など収められた曲は、そのほとんどが代表曲と呼ばれることになるもの。音楽性は豊かで幅広く、また、《レオパルド・スキン・ビルボックス・ハット》では自らブルージィなリード・ギターを聞かせ、最後の面には11分超のバラッド《サッド・アイド・レディ・オブ・ザ・ロウランズ》だけを収めるなど、さまざまな面で意欲的な姿勢をみせている。

 ロックが大きなカーブを曲がり、いくつかの道に分岐した1966年。『ブロンド・オブ・ブロンド』は間違いなくその重要な時期を象徴する作品だった。しかしこのあとボブ・ディランは、しばらくのあいだ、表舞台から姿を消すことになる。[次回9/28(水)更新予定]